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マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテットが弾き倒す強靭な『Inter-Are』

 マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテットの新作を、10月にコアポートが日本先行発売するという朗報を耳にして、小躍りしているのは私だけではないだろう。

 ちょっと先のようだが、もう6月も終わりが見えており(恐ろしいことに)、もう少しといえばもう少し。しかしその時間が、カルテットの2枚のアルバムや関連作の復習をしておくにはちょうどよいのは間違いない。

マーク・ジュリアナの「ジャズ・カルテット」

 私がマーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテットのアルバムを聴いたのは、1stの2014年「Family First」からではなく、2017年の2nd「Jersey」からだった。のっけの『Inter-Are』の、一聴してわかるグルーヴの凄まじさに心奪われた。繰り返し聴いていくと、ノリ一発ではない、綿密かつ高密度に構築されている楽曲であることがわかり、また驚いた。同作を聴き込みつつ「Family First」に戻ってそちらも堪能し、こうしてマーク・ジュリアナの「ジャズ・カルテット」のファンになったのだ。

 一般的にマーク・ジュリアナの名声が高まったのはデヴィッド・ボウイの「Blackstar」への参加ゆえだろう。電子音楽を体得したフィジカルのドラマーとして、また歌伴ドラマーとしてのジュリアナの技量を存分に聴くことができる。その中でドラムが立つポイントはいたるところにあるものの、あくまでもボウイのバンドとしての範疇であり、そこは役割に徹しているはずだ。
 もちろんそれ以前に、彼の音楽家/ビートメイカーとしての才能の発露である、2012年の「Beat Music」やブラッド・メルドーとの作品、さかのぼってHeerntを聴き込んだ方もいるだろう。こうしたスタジオ録音で、エレクトリック〜フィジカルを自在に練り合わせて陶酔的な音楽を奏でていた。さらにバンドを率いて、この音をこうやって生演奏に落とし込むのか、と本当に舌を巻いた。
 また、ジャズファンにはフックアップされる形で登場した、アヴィシャイ・コーエンのバンドでの演奏がいちばん記憶に残っているのかもしれない。
 こうしたジャンルの分裂が引き起こることは、ジュリアナの多彩さを示しているし、本人としても痛快なことだろう。

 そんな技巧と音楽性を合わせもったジュリアナが、ジャズ・ドラマーとしての「リーダー作」を世に問う。このカルテットが自身のキャリアの中のメルクマールであり、アコースティックサイドでの主活動と位置付ける意味もあったのだろう。
 アルバムのサウンド面を支えるのは、「Family First」も「Jersey」も、さらに言えば「My Life Starts Now」などもニューヨークのバンカー・スタジオのジョン・デイヴィス(ジュリアナが尊敬するジョジョ・メイヤーのバンドのベーシストでもある)。同一エンジニアとスタジオでの録音により、芯が通されている。
 余計な付帯音のない太くて引き締まった低域はデイヴィスのシグネチュアであり、同時にジュリアナが、ジャズであろうとテクノであろうと低域〜リズム録音に同じスタンスでアプローチをしていることの証左だ。バンドの塊感あるサウンドが左右スピーカーの間にズシっと納まって、濃厚な聴きごたえを生み出している。
 音質や録音の印象が大きく異なってしまうので、CDクォリティ以上の環境でぜひ聴いてほしい。

『Inter-Are』について語ること

 このカルテットでのマーク・ジュリアナの音楽についてどう語っていくか。
 それぞれのアルバム総体から入ることも、ジャズやテクノのバックグラウンドから入ることも、ジュリアナの多彩さに引きつければ様々な入り口がある。
 しかし、ここでは大風呂敷ではなく、たった1曲『Inter-Are』について語ることで、マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテットの魅力やおもしろさを伝えることにしてみたい。

 冒頭にも書いたように『Inter-Are』は、文句なし、ぶっちぎりにドライブ感のある曲で、アルバムの冒頭を飾るにふさわしい没入感が味わえる。
 限られたベース音を軸にミニマルな反復を繰り返し、螺旋的にグルーヴは熱を帯びる。JBのワンノートファンクのようだが、シンプルな反復によって強度を高めているだけではない。その中に、マーク・ジュリアナがこの曲に込めた狙いがいくつか聴こえてくる。

 クレジットだけ見た当初に意外に思ったのが、この曲が妻のグレッチェン・パーラトとの共作であること。反復的なグルーヴに耳が行きがちだが、短いながらも印象的なテーマフレーズに彼女が貢献していると考えれば納得もできる。クレズマチックというか、ヨーロッパ的哀愁というか、「Jersey」と冠したアルバムに東海岸らしい翳りある旋律がぴったり合う。速度×哀愁が強烈な印象を残すことは、先達ジョン・ゾーンも証明していた。
 この曲はその反復性とテーマゆえ、ビートメイカーとジャズ・ミュージシャンの素養が、ひとつになろうと激しくぶつかって生まれる摩擦熱を感じさせる。そこが『Inter-Are』にみなぎる緊張感の源泉であり、他の曲と区別されるべきポイントになるだろう。

 スタジオ版に加えて、簡単にYouTubeで拾えるライヴ映像を合わせて、計5バージョンの『Inter-Are』の変奏を聴くことがきる。ここから聴き取れるサウンドから、ジュリアナが施した仕掛けをほぐしていく。
 なお、「Family First」と「Jersey」ではピアニストが異なり、後者からファビアン・アルマザンが加入した変化は顕著だった。

①2016年10月スタジオ録音

 この曲はリズムパターンの提示とサックスによるリフと、テーマが二重構造になっていて、まずはそのリズムの提示から始まる。この導入部がなぜこれほど刺激的かというと、実際はド頭から一本調子の反復リズムではないからだ。バスドラとスネアからなる基本パターンにクリス・モリッシーのウッドベースが並走し、さらに左側に単独のハイハットがいて、右奥に薄くもう1セットドラムがいる。
 さらにメロディの提示が始まると、左のハイハットとジェイソン・リグビーのサックスが対比されるようになる。ジャストに入るスネアを合いの手に、両者とも揺れながらテーマを演奏。これらの音がパターンをなぞりながらも絶妙なズレを作っていて、音の隙間を埋めながら、ポリリズミックにも響く。イントロから独特のテンション感が生まれているのはこのためだ。
 0:35から持続してアルマザンがピアノを切れ目なく響かせるが、シンセのピッチべンドのようにピアノ線をコントロールして寄れた音を作る。単線的なサックスとベースが寄り添うのだが、よけいにこの変態的なピアノを聴かせることになり、1:
25あたりまで「無言の押し合い」のような膠着状態を演出。
 そこから急に目覚めたかのように視界がクリアになるのは、その瞬間ピアノがヴィブラフォンのような残響をまとって現れるからで、それを合図とするかのように、静かに確実に、演奏者の熱量が上がっていく。サックスとピアノがそれぞれの個性を剥き出しにして最初の山場を演奏するが、ジュリアナはひたすらにリフを叩き続ける。
 3:00からのソロターンで、アルマザンがテーマを変奏しながらクロマチックなソロを弾き始めると、それまでの均衡がやぶられていき、わずかな時間だがジュリアナもリフを少しずつ取り崩すようにして最後の山場を作る。そのままバンドは哀愁を振り切ってアウトロのフレーズを弾ききり、カタルシスに向かって疾走していく。
 そして、大ラスでは絶えず基準信号を送り続けていたベースが静寂の中に残り、サックスの残響はいつのまにかシンセの持続音に継ぎ変えられる。そこにテーマとはまったく異質なパルス音(エレキギターのミュートのような)、打ち込みらしきタブラ、ハンドクラップ、シンセによるループが被さり、曲はカットアウトで幕を閉じる。
 ジャズ的にはじまりながらもビートミュージックとして終わる。そこには強靭なグルーヴ感とはうらはらに、ジャンルで完結しない不安定さも孕んでいて、それが『Inter-Are』の魅力であり、ひいてはグループ自体の魅力になっているのだ。
 異ジャンルが擦れあって生まれる摩擦熱。それは、音のレイヤーを積み重ねた、このポストプロダクションを経たスタジオ録音で特に感じることができる。ビートメイカーとして箱庭的な音作りに邁進したジュリアナの、ミクロな視点が生み出した世界なのだ。

ライヴ演奏を聴く

 では、それがライヴではどう演奏されているのか。
 スタジオ版と異なってどの演奏もメロディの提示から入る、よりジャズっぽい構成をとる。だが、そこからはそれぞれ違った表情を見せている。
 ②と③は「Jersey」と同じアルマザンが入ったカルテット。そのアルマザンがアコーテスティックのピアノを弾くのかエレピを弾くのかだけで、曲そのものの意味合いを変えて演奏している(ジュリアナのディレクションだとは思うが)。
 ②はこの中でもっともオーソドックスで、原曲を忠実に「ジャズ」に落とし込もうと演奏している。ドラムが反復的なグルーヴではないので、リード楽器もそれに合わせてメロディックな演奏を聞かせている。対して③は原曲のビートミュージックとしての側面を強く意識ている。ピアノよりずっと残響の少ないエレピを用いることで、打ち込み的でパーカッシヴなリズムパターンをフィジカルな演奏で再現しているのだ。またその歪感と音の揺らぎにリードされて、4:30からプログレッシヴ・ロックのように展開する瞬間もある。
 ジュリアナの演奏を聴いていつも思うのは、シンバルレガートのきれいさ。右手のスティック捌きを見ているだけで圧倒される。

 一点して、ジャズ的な哀愁と破綻すれすれも厭わない音響美をもち、原曲以上のスピード芸術を強化しているのが④。ピアノがアルマザンではなく前作でグループの一員だったシャイ・マエストロが参加している。パターンから逸脱したフリーっぽい演奏を積み重ねて、8分を超える演奏にリビルドした。熱っぽいインタープレイはbpm200あたりで推進しながら、5:40すぎにはサックスとピアノがかっちりと噛み合ってテーマをユニゾンする(鳥肌)。その直後のマエストロの高速ソロは原曲を遠くに霞ませるのだが、8分手前でそのままアウトロのフレーズに突入(鳥肌)。大団円に至る圧倒的な演奏を聴かせるのだ。これはすごい。

 そして、さらにまったく違うアレンジに変貌しているのが⑤。スティックで有名なヴィックファースが主催しているVF jamsというスタジオ・ライヴのようだが、詳細はわからない(向こうはこういうのがいろいろあっていいなー)。が、まるでスナーキー・パピーがコズミックなアレンジで『Inter-Are』を演奏したかのよう。ヴィックファースだけあって、ジュリアナのドラムソロ、それもかなりロックっぽい(あるいは80年代P-Funkのような)ダイナミックな演奏が聴けるのがおもしろい。毛色は違うが、『Inter-Are』の可能性を如実に示していよう。

②2017年8月前後

(アップロードされたのがその時期というだけかもだが)


③2017年9月

④2018年11月

⑤2018年12月

 さて、結局は好きな曲について書きたいだけ書くスタイルになってしまったが、「『Inter-Are』について語ることで、マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテットの魅力やおもしろさを伝える」のを達成できているのかどうか……。

 マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット(いまさらながらMGJQとか表記しとけば楽だったと思い至る)の新作はSSWのようなムードだという。ジャズドラマーの同様の作風といえばブライアン・ブレイドの「ママ・ローサ」がぱっと思い浮かぶのだが、それだともろにSSWすぎるか。はたまたパーラトとのコラボレーションが強まるのか。
 「Family First」と「Jersey」、さらにボウイやアヴィシャイ・コーエン、ダニー・マッカスリンなど、姉妹作も聴き込みつつリリースを待ちたいと思う。(了)

ちなみにこんなのもYoutubeにあって、ウェイン・クランツ好きとしてうれしい。

https://www.youtube.com/watch?v=Al_8_F8EpnA


写真はSFJAZZの2018年記事より



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