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密室的サウンド美あふれるシオ・クローカーの新作

 先月にこの原稿でテオ・クロッカー(以後、日本盤発売元表記に揃えてシオ・クローカー)の新曲について書いた。新譜の「Love Quantum」を聴く時間がとれていなかったのだが、ようやく聴けて、結論として、やはりクローカーの新譜が大いに好みであることがわかった。と、同時に「そうくるのか」という驚きもある、不思議な魅力を持った作品だった。

 その前回の原稿で、収録曲の『TO BE WE』を「ギル・スコット=ヘロンを彷彿させる」と書いていた。ふたを開けてみれば、この曲に限らずアルバム全体を通してギル・スコット=ヘロン的なソウル〜ジャズサウンドが横溢しており、さらにスコット=ヘロンにとどまらずクリフォード・ジョーダン『イン・ザ・ワールド』も射程に入るストラタ・イースト的なサウンドと情緒に満ちているのだった。一曲目のトランペットとピアノ、電子音による小品『Love Quantum』からそれは濃厚だ。
 その70年代前後の空気を感じさせるのは、深くリヴァーブが施されたサウンドデザインゆえ。反面、おそろしくトランスペアレンシーがよいので、ストレートにヴィンテージ感だけを際立てているわけではない。その両者が同居していることが本アルバムのサウンドの軸となっているし、また「それだけ」でもなく、説明なしではみ出していくようなところもある。
 だから、私は前回の原稿では『Jazz is Dead』を「前作を引き継ぐサウンドもアルバムに収められ」と書いていた。半分当たっていて半分はずれていたとも言えるのだが、シングルとして切り離したときには、特に往時のサウンドを意識させる他の曲との対比で聴いていたので、そのように聞こえていた。
 ところが前奏曲『Love Quantum』からの流れで聴くと、統一されたリヴァーブ感の中で、そのサウンドはアルバム総体の流れに則したものであった。温度感の低いラップもトラップ的な響きではなく、アルバムの中に置かれるとポエトリー・リーディングのような抑制、スコット=ヘロンの「Pieces of the man」のように響いてくる。バックトラックもリヴァーブの浸食を受けてエッジが溶解し、アブストラクトな響きを増幅させていた。

 このアルバムのサウンドは生演奏では出すことができない。それは徹底して架空の音響だからだ。 
 その意味では、前作の「BLK2LIFE II A FUTURE PAST」は電子音と生音を同等に扱っているし、基本はオンな録音なので、例えばシーケンサーループに演奏を乗せたり、リアルタイムのエフェクトをかけて再現するようなことは可能だろう(たとえ話として)。
 だが、「Love Quantum」の音(響)はライヴ空間でそのまま再現はできない。あの深いリヴァーブは密室空間(それがコンピューター内部であったとしても)から解き放されたとたんにマジックを失ってしまう類の、儚い音だからだ。
 『Humanity』での終わりなきリヴァーブに耳を傾けてほしい。水面に映る逆さ富士のように演奏を投影してはいるが、それだけでは決して実像を掴むことはできない。そのままリヴァーブに引き込まれると思った刹那、『Divinity』に吸収されてドライなサウンドが実体化する。その反転具合は、曲名とはうらはらだ(Humanity=人間性、Divinity=神性)。ジャミラ・ウッズを迎えてDivinityという曲を歌わせたい気持ちは理解できるし、楽曲自体ウッズのアルバムに入っていてもおかしくない浮遊感のあるトラックだ。聞き取りでは歌詞がわかるほどの英語力を持ち合わせていないので、そこに言及できないのが残念である。

 もちろんリヴァーブの薄衣を脱ぎ捨てて、私が考えるところの本作らしさを棚上げすれば、シオ・クローカーを核とするソリッドなバンドサウンドが残ることは、これまでの楽曲のライヴ演奏が証明している。それはあたかも、アルバムの世界で幻想を聴かせたザ・バンドが、生演奏では剥き出しのロックンロールバンドだったことに似ているのかもしれない。
 それを予感させるのが『Love Thyself』だ。力強いトランペットリフがシンセとユニゾンでテーマを聴かせ、ティードラ・モーゼスのヴォーカルと渡り合う。打ち込みのリズムを生演奏で再現すると、さぞかしライヴで盛り上がるだろうと思わせる。アルバム中では珍しくそういう熱を感じる楽曲だ。

 そこではたと気づくのだが、バンドリーダーであるはずのシオ・クローカーがトランペットで演奏を引っ張る曲が、このアルバムの中に果たして何曲あったのだろうか。フィーチャリング・ミュージシャンと同格、あるいはプレリュードやインタールードでクローカー好みの感傷的なメロディを鳴らしている印象のほうが強く残っている。そのことも本作の「架空の音響」性を際立たせているのかもしれない。または、自分のトランペットの代わりがフィーチャーしているヴォーカリストの声だとばかりに、残響が混じり合う瞬間もある。

 散々書いているリヴァービーな音作りもそうだが、打ち込みも生ドラムも駆使してシンプルながらフックのあるリズムトラックが随所に聞かれるし、トランペットほか旋律楽器やエフェクトの音の多彩さと緩急の付け方にはつどつど耳を奪われた。
 スコットの『TO BE WE』だって、4:00あたりからのヴォーカルのエフェクトがそれまでの安定感をひっくり返している。あるいは、ジェームス・ティルマンの『Royal Conversation』ではトランペットやシンセなど最小限の音数で、ジェントル&ハスキーなティルマンのヴォーカルを支える様がジャズ的だ。そしてヴォーカルに寄り添う羽音のようなドラムも印象に残り、そのドラミング、リズムの面白さは続く『Cosmic Intercourse』へとつながっていく。

 ジャズというアートフォームとの接近と逸脱、両方の仕方として、「Love Quantum」での表現方法を選んだのだろうか。
 アルバムは前回の原稿で「ビリー・ホリデイが、アブストラクトなジャズバンドをバックに従えたかのよう」と書いた『SOMETHIN'』から、ラストのワイクリフ・ジョンをフィーチャリングした『She's Bad』で幕を閉じる。『SOMETHIN'』はこのアルバムにふさわしい落ち着きを与えているし、所を得た魅力を発散する。
 いっぽうで『She's Bad』の異物感はなんだろう。2:50あたりからアウトロが唐突に繋がれて本作とのサウンド面での整合性が図られているのだが、ワイクリフ・ジョンのパートはメジャー調のシンセイントロで騒然と始まる。ジョンの参加は前作同様だが、前作はアルバムの流れからはみ出した印象は受けなかった。前述の「説明なしではみ出していくような」のはまさにこういったところで、解釈できない。一聴してジャズっぽいところと、一聴してジャズっぽくないところを最後に並べたかのようだ。しかし、もしかしたらクローカー本人のラップで演奏すると、ライヴではハマるのかも、と思ったりもする。

 若き俊英を招集するいっぽうで、ワイクリフ・ジョン、ティードラ・モーゼス、ジル・スコットという2000年前後に活躍したR&B歌手をフィーチャリングしたことには、クローカーのどんな意図があるのだろう。これは本人に聞くしかない事柄だろうが、1985年生まれのクローカーらしい憧れもあるのか。その線を軸で考えると、私は一気にギル・スコット=ヘロンまで巻き戻してしまったが、Madlibが2000年代に実践したことを現代に実体化したと言ってもよかったのかもしれない。

 下記、2022年5月の演奏からもそれを思い起こさせるのだが、同時に今日らしいクリエイティビティとヴォーカル感覚を備えたチェット・ベイカーか、とも思ってしまう。かっこいい。だから、結局はクローカーの佇まい含めてこの上なく「ジャズ」であり、ジャズというフォーマットを通してしか構築も解体もできない音楽を彼が奏でているということだ。
 Jazz is deadというクリシェもまたジャズ・ミュージシャンらしい自己韜晦か、あるいは常に最新モードをクリエイトしていくという気概なのかもしれない。後者もまた実にジャズ的だ。 (了)



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