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『また会ったときに恥ずかしいからね』

僕の文章を褒めてくれる、たった一人の友だちのリクエストにお応えして。

超パーソナルな話で、あまり人に話してこなかったけど、「なんで先生になったのか」という先生になるまでの半生を棚卸し的に書いてみます。ダイジェストとはいえ3000字くらいの長文!笑



現在。先生となり、異動で長年住んだ横浜を離れるにあたって。

アニメ『葬送のフリーレン』最終話『また会ったときに恥ずかしいからね』

感情の交流があったはずなのに、いつも通りというか、どこか素っ気なくお別れしていくヒンメルやフリーレンの姿を見て、「あぁ、やっぱこうだよな」とすごく腑に落ちる。

思い返すと何度も出会いと別れを繰り返し、気づくといつもあっさりとお別れしているんだけれど、僕はうまく表現できないだけで、ほんとはすごく寂しい。いつも離れてから思う。

「いつかきっとまた会える」と信じているし、何度もカムバックしてる身からすると、一時の別れで号泣したものなら、『また会ったときに恥ずかしい』ってのもあるけど、やっぱり感情の機微がいまだわからない自分もいる。「誰とでも6割くらい仲良いよね」という大学のゼミの同期の言葉が的を得ているなぁって思う。中学生の頃の発言で大顰蹙をかったけど、今も昔と変わらない。「みんな好きなんだからしょーがないじゃん」。

ただ、フリーレンたちとは違い、あっさり別れるわりには未練たらしいのがどうやら自分というもので、隙あらばどうでもいいことで連絡したくなるし、いただいた手紙を何度も読み直すし、写真や動画を定期的に見返す。自分の存在を確かめるように。

小学生の卒業文集に書いた将来の夢、“先生”。

我ながら中学生までは優等生だったと自負してるけど、学校が好きだったし、多分、関わる全ての人とそこそこけっこー仲良くできていたし、自分の【居場所】だった。居場所はずっと学校に、というか周りの人たちとの関係性の中にあった。多分、将来先生になるんだろうなぁってぼんやり考えていた。


中学1年生のとき、ひょんなことから大人に殺されかける経験をした。

相手は本気じゃなかったと今は思うけど、車がビュンビュン走るバイパス道路の横で、身体を持ち上げられて投げ飛ばされそうになった。「お前を殺すのなんて簡単なんだぞ」って。そんなん言われて大の大人に敵うはずもなく、「あぁ、死んじゃうのか」って諦めた。結果的に殺されることはなく、「お前らのセンコー呼んで来い」とその大人に言われ、当時の生徒指導のM先生がやってきて「君たちはもう帰りなさい」と言われ、帰宅。部屋に閉じこもっていると、母親から「M先生から電話」と子機を渡される。

何話したかは正直覚えていないけれども、堰を切ったように大号泣したことは覚えている。「怖かったよなぁ」と声をかけてくれたM先生。僕らのちょっと前の世代の先輩たちが荒れていて、その立て直しのために赴任したからか、すごく怖い生徒指導の先生だったけど、授業はいつも脱線して楽しかったし、「ホンモノに触れなさい」という教えは今も覚えている。こーゆー先生になりたいなって思ってた。この前、地元に帰って中学校の横を通ったときにこの話をしてたら自然と涙出てきた。恐怖を思い出したからではなくて、M先生を思い出して。


人生で一番高校生活が楽しくなかった。

その後、高校は地元の進学校に通うものの、勉強と部活だけの日々に不満を抱く余裕もなく、ひたすら日々を過ごしていた。なんだかんだ学校行事はいろいろやったとは思う。だけど、何かが不満だった。受験勉強だけは本気でやったって思えるけど、それ以外何かに打ち込んだわけじゃないからか。でも高校のときの友だちはめちゃくちゃ好きで、ときに優秀すぎて引くんだけど、話していて面白い。「楽しくなかった」と書いてしまうのは、多分、唯一本気で打ち込んだ受験勉強の結果、志望校に落ちたことが今もなお心に残っているから。だけどよくよく考えると、面白い友だちと出会えて、それなりに楽しくやっていたわ。高校時代もいい経験だったと今は思える。


だから大学では自分がやりたいと思ったことに片っ端から手を出してはやめて、好き勝手に生きたから超楽しかった。

パラグアイやトンガでの時間、映画・演劇・音楽など、いわるゆカルチャー的なものに触れ、世界が一気に拡がり、そして自分が興味あることをさわりだけでも学べたのは非常に幸せな時間だった。パラグアイで日本人学校に訪れたのもいい機会で、帰国後に教免とるために留年しようかと思ったけど、唯一取れる免許が高校の社会科で、社会の先生になりたいわけじゃないなぁと考え直してやめた。

大学で出会った人たち、物事はとても面白くて、そんな経験をしたからこそ、もっといろんな世界を知りたいと思った。社会人になって、いろんな経験を踏まえてそれでも先生になりたいと思ったら、そんときに免許をとろうと。どうせ先生になるなら、どうしても学校以外の経験を踏まえたかった。


ただ社会人は苦難の連続。

ただ、仕事としてやりたいことが特にあるわけでもなく、まともに就活もせず、(唯一行きたかったDMMから不採用となり)、高校の同級生に声をかけられ入社したのは、マーケティングカンパニー。中小で当時まだベンチャー気質もあって、めっっっちゃ働いた。超楽しかった。働く人たちがステキすぎるし、大企業のマーケに微力ながらも貢献することができて、控えめに言ってもエキサイティングな日々だった。だけど、いやだからなのか、心身の不調がついぞ否めず、自分の仕事にボロが出てきて、その結果、有給休暇をとって参加しようとしていた高校の友だちの結婚式をドタキャンしてしまったことを契機に退職を決める。

退職を決めた理由の一つに、N高の存在を知り、これだ!と思った。この高校こそが僕が求めていたものだ!と。通信制の高校めっちゃいいやん!N高めっちゃおもろいやん!って。

そこからいろんな仕事をして、教免をとるためにお金を貯めようとした。挫折しまくりながら個人事業主になるもコロナ。月収4万円なんてこともあった。でもいろんなご縁で仕事をもらって、時間とお金に余裕ができて、「これがタイミングやな」と大学に編入。働きながら免許をとる。そして今に至る。


…端折ったけど長ぇ。


「どうせやるなら一生懸命」という中学1年生のクラス訓的なものが今も自分の中に残っている。

大学からほんとに数えきれないくらい周りに迷惑をかけたけど、一生懸命生きてきた。そして出会ってくれた全ての人たち、全ての経験があるからこそ、今、自信を持って教師をやれている。あの日憧れた“先生”になれているかはまだわからない。一生わからないかもしれない。それでも、このなんかいろいろ難しい時代を生きる生徒たちと全力で向き合いつつ、生徒たちの【居場所】になりたい。

大事なところなので、もう一度、大きく書きます。

生徒たちの【居場所】になりたい。


異動にともない生徒たちからいただいた手紙を読むと、嬉しい言葉で溢れていて、この仕事を選んでよかった、今までの経験が活きている、僕がもらった皆さんからの恩を廻せている、と思えてとても嬉しい。僕と関わってくれた皆さんに感謝してます。これ本心。人付き合いこそが、AI時代も変わらない価値だと思っている。そんな難しく考えなくても、単純にやっぱり好きだと思う、人付き合いが。(なお深い関係性は苦手。)


それなのに別れるときにあっさり素っ気ないのは、やっぱり『また会ったときに恥ずかしいからね』。またきっと会えるよ。

今まで出会った人たちとまた会えることを信じて。またねー!


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