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僕のひこうき雲 12 (揺れる手術への決意)

某月某日

妻と手術の話し合いに時間をかけている。

先日、縁あって、妻の昔からの知り合いである足裏マッサージ師の方が、遠路はるばる東京から大阪までお越し下さり、施術を受けることができた。

その方は常に生きる力にみなぎり、博識で、自然と周囲に人が集まる方だが、施術をしながら、「手術は受けなくてよいのでは」との言葉を何度も妻に投げかけていた。

施術後になって、あまりに軽く無責任な言葉に、妻のことを何と思っているのだと、落胆と湧き上がる怒りに囚われてしまい、やり切れなかった。

弱者である私達にとって、そうした言葉のもつ破壊力がどれほどのものなのか想像もしてくれなかったのだろう。

そして、妻からは手術を受けたくないと言われた。

一度手術をしたら寝た子を起こし、今後長期に渡って闘いを続けなければならなくなると言われた。

また近藤誠先生のセカンドオピニオンを受けたいとのことだった。

近藤誠先生については、母が亡くなる際に、同じくセカンドオピニオンで伺ったが、個人的に良い印象を持てなかったと妻に伝えた。

セカンドオピニオンで今回の足裏マッサージによる腫瘍の変化を確認したいと思うのなら、別の病院で、再び数度に及ぶ厳しい検査を受けなければならず、現在の病院から画像を借りるとしても、現在の病院に一度は口頭で同意を伝え、あらかじめ組まれた手術までの日程を見ると、とにかく時間がなかった。

中学二年生の息子は、お母さんには手術を受けてほしいとの意見だった。

前回の手術説明で、主治医からは、このまま放置すると白い影の部分が大きくなり、症状が強くなること、また手術をする際の影響がとても大きくなることは聞いていた。

妻は私の体のことだからと言う。

僕は本当に妻と一心同体になって物事を考えられているか、手術を勧めることは、妻の希望から目を背けて、ただ妻を傷つけようとしているのだけのことではないのか、頭を抱えて、首を締め上げ、唸りながら、何度も何度も自問する。

そして、妻の未来、家族の未来のために、手術は必要なのだとの結論に改めて行き着く。わがままでも、押し付けでも、何と言われようとも、妻には生きてもらいたい。ただただそれだけなのだ。

僕が妻に手術を受けることを説得できなければ、夫失格であり、父親失格である。

妻の気持ちは揺れるのは当たり前だ。

不安定な感情の波を何度もかぶりながら、でも全力で受け止めて、いま僕が思うことを一言一言大切に伝えるしかない。

このまま終わらせては絶対にだめだ。

※この記事は投げ銭記事です。投げ銭は妻の医療費に充てさせていただいております。

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妻が倒れてから、感情を言葉にすることの大切さを実感している。拙くても不器用でも、妻への思いは送り続けたい。