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「くれなずめ」今日の日はさようなら。

 今回は高良健吾が死ななかった。残される側だった。何を気にしてんねん。

 予期せず緊急事態宣言の発令に伴う映画館の休業を受け、くだんの映画も公開延期される運びとなった。ようやく再公開日が決定し、しかし緊急事態宣言のあおりを受けて私の住む近隣都市でも土日は映画館が開かないため、なんとかかんとか間を縫って平日の朝に頑張って見に行った。冷静に考えておかしくねーか? こんな強いられる思いして映画って見るもんか? というかそもそもその「機会を減らす」って密を作る作らないの観点から見るとまるっきり逆効果じゃね? とかいろんなことを思うのだが、とりあえずこの項目でそんなことを述べてもしょうがない。しょうがないとは言え、全くもって作り手の情熱やら受け手の嗜好やらに対する尊重がなく、意味不明で根拠に欠けた、いや反発受けて6月からはちょっと変えるね……とかするような規制をおいそれと簡単に敷くなや何から何まで中途半端やな、とキレ散らかしそうになるのを素敵な映画を見てなんとか押さえている。映画が世の中にあって命拾いしたのは私だけでなくもっと偉い人たちも同じですね。

 さて毒はこんなもんにして映画の話に入ろう。
 今回の映画は「くれなずめ」。「暮泥む」の命令形である。きれいな言い方をするとマジックアワー、黄昏時。古来より多く映画の題材に用いられた時間帯、情景をそのままタイトルに持ってくる自負がすごい。元はこの作品、舞台演劇が発祥だというけど、舞台演劇や文芸には真似のできない「実際の夕景」をエンドロールに使える映画という媒体を選んだのは、実は大正解だったのではと思う。

 物語は至ってシンプルで、あらすじを紹介したら根幹に触れてしまうので、あまり多くは語らない。仲の良かった昔馴染みの男6人が、結婚式の余興のために久々に顔を合わせる。6人のうち1人は実はもう、というのは割と序盤ですでに本人の口から語られていて、話のカタルシスはここにはない。むしろそれを念頭に置きながら映画を見る方が、細かい様々なギミックに気づけて良いのではないかと思う。
 成田凌演じる吉尾と、その仲間たちのどうでもいい、くだらない、ありふれたやりとりの記憶。高校でつるんで、10年前の空気感をそのまま持ってこられる昔馴染みたち。ホモソーシャルな、忌憚なく無礼でアホなやり取りの中に、しかし確実に潜む親愛の情。二度と戻らないことへのどうにもならない後悔。極めて私的で、閉鎖的で、それでいてごまかしのない若い男たちのやりとりを2時間見るだけだった。めちゃめちゃ泣いてた。マスクを交換する羽目になった。映画でこれだけ泣いたのは「花束みたいな恋をした」以来かもしれない。

 自分にとって「花束」は、絹と麦の生きた大学時代(2014年から2015年頃)が自分と全く同じ時代だったというのもあって、ある種の共時性に泣かされたと昔の記事でも書いたけど、今回の「くれなずめ」もまた時代感に記憶を呼び起こされたからという側面があり、さらに言えばあの「高校時代の友人たち」特有の関係性に覚えがちょっとある。幸にしていい友人に恵まれたので高校時代は本当に楽しかったし(学校そのものは苦でしかなかった)、SNSが発達した幸運な現代、ああして顔を合わせるに限らず10年前の空気感をそのまんま眼前に引っ張ってこれる環境が整っている。先日、そうした友人とオンライン飲みをしたが、同性の、高校時代に毎日一緒に昼ごはんを食べていた友人たちの空気感は、世間で言われる20代女性のテンプレと何一つ合致しない、いや本当お前らそのノリで社会で生きててかなり無理してんじゃねえか、と失礼ながら問いかけたくなるくらいものすごくバカでくだらなかった。言っちゃなんだけど、多分この同性の友人とのバカでくだらないノリは、男性が取り沙汰されることが多いながらも、男性だけに特有のものでも、女性に固有の現象でもなく、実は結構普遍的にあるのだと思う。もちろん個別のエピソードに共感したわけではないし、幸にして友人はまだ誰も死んでないし、余興に呼んでもらう結婚式もない。ないのだが、その「感覚」に覚えがある体験は、物語解釈の解像度を上げてくれている気がした。だから泣かされたんだろうし、泣くほど深く作品世界に入りこんだんだろうと思った。

 この作品の本質は、だから「見た人が自分の中にある経験を引っ張り出して追体験できる」ところにあるのかというと、しかしながらそうではない。
 おそらくこの俳優陣を揃えて、そういう私的なところに終始するのであれば、作品としてはかなり矮小化されたものになってしまう。そうではなく、ストーリーの軸がしっかりしていて、テンポも抜群に良い。一対一だと受け止められない事実と処理しきれない気持ちを、5人で分かち合って茶化して、いっぱいいっぱい一緒の時間を重んじようとしている。ひとりだけ歳を取らない仲間と、どんどん歳をとって、思い出もなんとなく曖昧になっていく5人の、全てを言語化しない曖昧な「やさしさ」、曖昧なままでいたい「甘え」、曖昧にしておいてほしいという「願い」が稚拙で身勝手で、それでいて愛おしい。この作品の最大の魅力は、そういう甘ったれんな、と言われてしまいそうなズブズブの不安定さを全て「ゆるす」ところにある。許しちゃうんだ、と思う。そして、いいよな別にそれで、と気づかされる。全て言語化して線引きして対象化しなくても、地球は回るし世の中何とかなる。分別を身につけた人は何事からも目を背けてはいけないと言うけど、目を背けるな、と言われて無理をして直視したものが、果たしてどれだけ人を救ってくれるだろうか? 死んでたって生きてたって同じなんだよ、とミキエが吉尾に啖呵を切るシーンがあったけど、あのセリフに全てが集約されてる気がする。会わなくなった人は、消息を知らない人は、何をしているかわからない人は、生きていても死んでいても同じ。そう思いたい。そういうことにしておきたい。ああなんかあの人いたな、昔アレしたな、なんか急に思い出したわ、元気してんのかな。仮に本当は死んでるってわかってても、そう言いたい気持ち。それは個人の体験に集約されない、曖昧で無責任で、でも人と人との関係性を考えるにあたってとても、希望にあふれた姿勢ではないかと思う。
 映画の中で描かれる関係性に、この文言を盛り込んだのはすごく希望のある描写ではないか。
 
 それはまさに今、日本中で、世界中で起こっていることだと思う。「なんとなく」集まりで懐かしい人を見る、約束するほどの仲ではない、もしくは約束するような立場にない人と会う機会を失う。能動的なコミュニケーションが可能な関係性しか生き残れない。物理的に集まれないことがダメにした数多の縁を考えてしまう。
 この時代に見たい映画であると思う。少なくともこの映画がこの時代の、この環境の中で封切りを迎えたことは、一つの示唆に富んでいる。すごくいい。よかった。見て良かったと思います。

 オーコメ副音声上映会も行きたかったなあ。つらみ。
 やはりこの世の中が悪い。世を憎むことしかもはやできない。それでも生きていくしかないのだけど。
 生きていた方が好きなフィクションと出会う機会も増えるし、これからもそうやって生きていくしかない。

 6月からの日本は、7月の日本はどうなってしまうのだろう。感染症だけではない、それに付随する様々な経済、社会、政治の問題を憂いながらも、これに関しては映画に関係ないのでこの辺で終わっとく。来月も良い映画を見て、良いドラマを見て、良い本を読もう。それだけだ。

 まだまだ感想あげられてない素敵な作品がたくさんあるので〜次は「水を抱く女」の話をします。
 またよろしくどうぞ。では。

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