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アニメに難、「ブルージャイアント」

アニメに難

映画に行く前にこんなに逡巡したのは久しぶりだ。私のようなうるさ型のものがこの作品を見て満足することはないだろうと予感し、やっぱりアバターにしたほうがいいのでは、直前まで迷いつつ、観た。

正直言って観るのがつらいアニメ映画だった。アニメーションには実写映画とは異なる、独特の映像表現があり、写実的であればいいというものではない。私はアニメに詳しいものではないが、何かと実写と合成したかのような箇所が多く、アニメらしくなく実写のような生々しい画像となるかと思えば、何気なく歩行者が街を歩いているシーンで、人が不自然な歩き方をしているとか、マンガ的表現としても写実的表現としてもおかしな絵柄が多すぎて、そんなことばかり気になってみていたので疲労度A。この辺りにかなりのこだわりを持つ宮崎駿なら激怒するんじゃないかな。(彼ならばアニメ的表現は実写とは違うんだ、と言い切るでしょ)
それから他の方も指摘しているだろうが、SFマンガかポケモンかと見まがうような、キラリと光る閃光や、オーロラのようなフィルター、心の炎を現前させたような赤青の炎など、ロボットアニメのオープニングシーンのような派手な演出で、演奏の凄みを表現しようとする、まあ姑息なシーンが多すぎて疲労度B+。演出がすごいから、演奏もすごいってことにはならないと制作陣は分っているはずだが、何なのだろうか?原作のマンガも演奏シーンでは、演奏の熱量を背景の処理などで表現をしているから、アニメなりの手法でやってみようということだろうが、、。
想像してほしい、シリアスな恋愛映画で恋するキャラクターが体の周りにハートを浮かせているようなシーンがあったら、笑ってしまうだろう。この映画がやっているのはそういうことだと思う。

注)しかし書きすぎて反省した、、。「ブルージャイアント」はジャズSFファンタジーなのだと割り切る手もあるかもしれない。
下記のようなアニメもあるからね。(マクロス)


物語性なし

本作はサックスプレイヤーである宮本大の成長譚である、それは分かる。しかし、宮本大が何を抱え、悩み、どのような出会いやきっかけでそれに気づき、どのように克服していくのか(あるいは克服できないのか)、その対象は人間であるか、技術であるか、集団としてのバンドであるか、こうしたプロットがないと物語は成立しない。
原作にも言えるのだが、やっぱり「物語」と言えるものがなく、主人公が「俺は凄いプレイヤーになる」「ジャズの良さを伝える」とか言い続けているだけで、キャラクターとしての造形がなく、周囲もほとんどメンバー3人だけで進める筋であるため、ストーリーに展開がなく、仕方なく演奏シーンがやたら多い、という構成になった。ジャズ映画でこんなに演奏シーンが長いものは少ないのではないかと思う。ジャズ好きにはたまらないでしょ?というかもしれないが、それは違う。どこまでストーリーが進んでも映画を観た気にならないのだ。
原作「Blue Giant」は地元、東京、海外へと進んでいく展開だが、今回アニメではその全部を詰め込んだわけでもなく、「東京」だけを取り上げていたのにもかかわらず、ストーリー展開が薄いとは、やはり脚本に難があるんじゃなかろうか。(あるいは、上原ひろみ達の演奏を前面にする、というコンセプトを先に決定してしまい、すると演奏場面を減らすと失礼だから、自然と主人公たちの物語は縮小することになった、とか?)
物語やキャラクターがない、とは、どんでん返しがないとか、性格が薄いとか、そういうことではなく、生い立ちや人間関係や環境変化のなかで、キャラクターの成長や堕落などが展開していないために、単線的で予測可能なストーリーにしかならない(どうせこの後うまくいくんでしょ?)ということだ。特に宮本大は特に生い立ちや性格や親子その他の人間関係に問題を抱えず、本作ではメンバー2名以外との人間関係も希薄で恋愛もなく、「音楽バカ」としか描かれない。これでは物語にはなりにくい。沢辺雪祈にあるような挫折とその克服の要素、このようなものが主人公にないと厳しいのではないのか。

宮本大とは誰であったか

そう、そして気になっていた演奏の件。宮本大という架空のプレイヤーは、マンガでは表現しえない音について、実際にはどのような演奏をしていたのか?
思っていたよりは馬場智章はよかったと思う。本来そつのないプレイヤーだが、恐らく故意にオーバーブロー気味にテナーサックスを鳴らし、音使いを意識的にインサイドにして、あまり玄人っぽいテクニシャンにならないよう演奏し、宮本大「らしさ」を苦労して表現されていたのではないか。しかし河原で鍛え上げた粗削りの個性かと言われれば、さほどでもない、というしかない。前半の方に、ピアノの沢辺雪祈に宮本大の演奏が途中で、コードから外れている、と怒られる場面があるが、独習型で楽典を修めていないプレイヤーならそうなって当然なのだ。その後宮本大もすっかり腕を上げて、コード進行に難なく対応していくプレイヤーに成長しているのだが、宮本大の出発点を考えると、「コードから外れることも多いが音はすごい」「ほとんどペンタ一発だがかっこいい」とか、その出発点を生かしたような演奏スタイルであってもよかったのにと思う。(以下参考までに馬場智章の演奏)

繰り返しになるが、宮本大がすごい演奏をすると、モーションキャプチャーで宮本大の顔が実際のプレイヤーの肉体(のキャプチャー)と合成され、さらにピカピカ演出により・・・、私にとっては「これは宮本大ではなく、馬場智章だ」と表現されているようにしか見えなかった。宮本大というキャラクターに観客を感情移入させるというよりも、実際に音を充てたプレイヤーを感じさせてしまうこの手法って、創作物であるアニメとしてはマイナスなのではないですかね。
例えば実写映画では俳優がジャズを演奏し、実際のプレイヤーが演奏の音を充てて、俳優は「それらしく」演奏する演技をする場面がある。もし観客から「俳優が演奏しているように見えない」と言われたら、俳優は悲しむよね。(以下動画は、俳優デンゼル・ワシントン=演奏テレンス・ブランチャード、俳優ウェズリー・スナイプス=演奏ブランフォード・マルサリスによる演奏シーン)

注)そして、誰か教えてほしい。原作にもある、今回のJASSというバンドのサックス、ピアノ、ドラムという3人編成の意味だが、これってどういうことだろう。ほとんどジャズ界にはみない編成で、ここは非常に革新的個性的なんだが、なぜそうなったんだろう、モデルがあるのかな。それともベーシストって登場させてもあまりキャラクターとして魅力がないんだろうか。

ジャズ文化に対する問題提起

原作を読むと、「ブルージャイアント」とは主人公宮本大と、その成長を邪魔しようとする既成ジャズ勢力との闘いの物語なのかと思わせるようなくだりが多く、ジャズ好きを増やすというよりは、「ジャズ好きって何か感じ悪いよね」という世間の印象を広めるのではないかと不安に思っていたりした。
映画でもこうした点が強調されると微妙だなと思っていたが、まあまあ足を引っ張るおじさんたちと、引き上げてくれるおじさんたちのバランスが取られており、ジャズを貶めるような感じにはなっていなかったと思う。
しかし、別に「スイングガールズ」みたいなジャズ賛歌にしてくれとは言わないが、ピアニスト沢辺雪祈がいうよう「おじさんたちが手癖だけでやってるジャズは衰退する」みたいなジャズ批評を作品内で提示するのであれば、それに対する主人公たちが提示するアンチテーゼはどうあるべきなのか、作品として答えないとフェアではないだろう。(それが「内臓をさらけ出すようなソロの自己表現」という文言だけではね、どうも答えにならない、、)
宮本大は仙台出身だから、東北のメロディーやノリをジャズにとか、そういう方向もあるのかもしれないが、、、まあそれはないか。過去に多くの人が探求した道だしね。

注)またもう一言言っておけば、よくある「ジャズ界の老害」は決してジャズに限られたものではなく他の文化にも十分当てはまるから、ジャズに起因する現象とは言えない。さらにジャズが後生大事にしているスタンダードを演奏する伝統によって、老若問わず世代共通の文化となりえている「ジャズのメリット」こそがそれを裏返したときに「老害」になるということ(功罪は一体であること)を忘れてはならない。

最後の演奏

ピアニスト沢辺雪祈がラストで片手のみで演奏するシーン、上原ひろみのアテ演奏に、すごい良いソロの瞬間があった。あの瞬間だけ、沢辺雪祈が本当に演奏しているようだった。

次作に期待

かなり、けなしてしまった・・・。(こういう記事にまず「いいね」は付かない)しかし「音楽映画にはずれなし」と思っている私にとっても、ジャズを取り上げる映画にこれぞ、というものは少ないと思う。
特にリアルタイムで観てきた「ラウンド・ミッドナイト」「バード」「モ・ベター・ブルース」など、名作と言われる作品、近年の「セッション」「マイルス・アヘッド」「ブルーに生まれついて」など(最後の「ブルーに生まれついて」は私はとてもよかったが)、並べてみても音楽映画、ジャズ映画としては一見の価値あれど、、実は映画そのものとしてはどうも今一つだと思ってきた。(それは、プレイヤーの成長というよりは堕落や転落を描く、というジャズのイメージというか宿命というか、を背景にしたストーリーが多いということもあるのだが、それだけではない。)
そう、だから「ブルージャイアント」も次作でがんばってほしい。きちんとストーリーを練り(もう原作と違っていい)、落ち着いたアニメでいいから、演奏場面を減らし、マンガと同様、音や絵がなくとも、プレイヤーの手が本物みたいに動いていなくとも音楽を感じさせる表現(それこそ映像表現)で、時に聞こえるフレーズを「もっと聞きたかった」と思わせるくらいで短く切ってしまえばいい。
音楽で人を感動させる、とは「全員」が喝采していることでもないだろう。多くの人がガヤガヤ話しながら聞いている中で、うち数人が本当に心を掴まれている、といった表現でもいいではないか。かつてコルトレーンのライブを観て心を打たれた坂田明(サックスプレイヤー)がコルトレーンの楽屋を訪ねると、楽屋ではコルトレーンがタオルを首にかけた状態で、まだ一人でバラバラと吹き続けていたという逸話、仮に演奏は聞こえなくとも(東京でのライブ盤は残されているが、恐らく坂田明の観た広島での音源は残されていない)、こうしたシーンを知ることであっても、コルトレーンの演奏のすごさは伝わるものである。

注)そして、今後は外国編になるはずだが、原作「ブルージャイアント」の外国文化や外国人の表現は紋切型でかなり先入観が強いから、そこも修正しておいてほしい。(例えば日本人は全員目が吊り上がって出っ歯で、90度おじぎをする、みたいな表現)

追伸、昨日亡くなったテナーの先人、ウェイン・ショーターに追悼の意を込めたい。


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