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対話企画:障害者雇用の『ここっておかしいよね?』 #1木村 隆さん

はじめに

障害がキャリアを積む上で”障害”にならない社会を実現する会社、Connecting Pointの阿部潤子です。

これまで、私の想いであったり、野望であったり、様々に考えてきたことをnoteの中に書き綴ってきました。そして、私自身が胸に秘めてきた想いをオープンにすることで、多くの方に出会い、対話する機会に恵まれました。しかし、それは同時に、「これからの障害者雇用」の「目的地」をどのように描けるのだろうか?と、私自身が改めて問われ、考える時間でもありました。

そこで、まずは、私の野望でもある「Motivator100」のデジタルコンテンツ版として、障害者雇用への想いにあふれる方々(当事者の方、支援者の方、企業の方)との対話を重ねて、その記録をnoteにアップしていこうと思います。そして、お一人おひとりの“想い”に耳を傾け、記事として“想い”を共有していくことで、今後、多くの人が目指したくなるような障害者雇用の進むべき「目的地」が見えてくるのではないか?と考えるようになりました。

対話のテーマは、「障害者雇用の『ここっておかしいよね?』」です。

まずは、私自身の「これっておかしいよね」を語りながら感想を頂きつつ、インタビューさせて頂く方にとっての「障害者雇用のここっておかしいよね?」を対話していきます。

「ここっておかしいよね?」を語って頂くことは、その方が思う「障害者雇用のこれから」を語ることであり、その方の想いを語って頂くことであると思います。

その上で、

・「おかしい」ポイントは、なぜ、おかしいと思うのか。
・「おかしい」ポイントは、なぜ変わらないままなのか。
・「おかしい」ポイントは、どうしたら解決できるのか。解決には何が必要だと思うか。
・「おかしいポイント」を越えた先にある社会/障害者雇用の姿とは?
・様々にある「おかしい」を抱きながら、XXさんにとって、何をしたら今の仕事をやり遂げたと思えるか?

について、自由にお話して頂く企画です。対話のテーマと質問事項は、いつも同じです。
何人にインタビューするか等は、いまのところ、決めていません。お話に耳を傾けながら、そして、こうして文字にしながら考えていこうと思います。

想いのあるプレイヤーの皆さんが、自身のナラティブなストーリーから「障害者雇用のこれっておかしいよね」を語り、「障害者雇用のこれから」を示していく、そんな企画になれたらと思っています!

#1 木村 隆さん プロフィール

記念すべき第1回目、1人目のインタビューを受けて下さった方は、木村 隆さんです。
私が前職時代に、ハローワークの企業支援担当者として、雇用指導官の皆さんと活動をされていらっしゃいました。今回、とてもとても熱い想いを語って下さっています。是非、お楽しみください。
まずは、お寄せ頂いたプロフィールから。

木村 隆さん プロフィール:
仕事としての原点は、学生時代のフリースクールでの体験です。生きづらさを抱えた方との出会いをたくさんいただきました。大学卒業後は小規模作業所の運営やハローワークでの業務を通して障害者福祉、障害者雇用に関わることができました。ハローワークでは障害者の職業紹介や企業支援を中心に、各支援機関と連携させていただくことも多かったです。2020年ハローワーク退職後、生活困窮窓口や就労移行支援事業所に関わりつつ独立。企業の勉強会や個別企業支援、福祉事業所への支援、福祉サービスに繋がらない方の相談などを幅広くお受けしています。

対話相手:木村 隆さん


① 木村さんにとっての「『障害者雇用』のここっておかしいよね?」とその理由を教えてください。

木村:障害のある人も、“普通”に採用されたらいいよね、と思います。
障害者雇用となると配慮事項を書いて、特別な枠で採用されて…。「配慮」なんて、組織に入ったら皆がやることですよね。頭の固い上司がいたら、みんな気を使いながら、「あの人には、XXXXのように順をおって説明すると良いよ」と考えて、配慮する。
しかし、それが障害者雇用における配慮となると、「配慮事項」をまとめて、これは職場内のどこまで周知すれば良いですか?みたいになってしまう。

「なんで“普通”に就職出来ないのだろうか?」ということ。

「就職したい!」となったときに、急に「あなたは障害者雇用枠ですね。ハローワークのXXXX窓口にいってください」と言われてしまう。障害者の法定雇用率制度という枠組みを活用して、自分らしく働けるならば良いけれども、その枠組みがあることで苦しむ人たちがいると思っています。

阿部:それは、“障害者”というラベルが貼られた窓口に行きたくない方、または障害者雇用枠の求人票に応募したくない方たちがいるということですか?

木村:そうですね、「特別に配慮されている」ということについて、他の人たちは、普通にやっていることなのに、自分だけは特別に配慮されてしまう、配慮事項をわざわざ開示しなくてはいけない…。それならば、障害を開示せずに、クローズで就職をしようとする人もいらっしゃいます。

クローズで入った時に、職場の中で、配慮をお互いに出来ればいいのかもしれないけど、それがなかなか出来ない。障害の有無に関わらず、私たちが働く職場の中で、お互いが配慮しあえる環境があればいいのだと思いますが…。

阿部:クローズで入社しても、その職場に良い関係性があって、お互いに配慮しあえる環境があったら、そこで働くことが出来るということですよね。逆に、社員同士が、お互い様という感覚で配慮しあえる職場環境がないから「挫折」する人も生まれてしまう…。

木村:はい、もちろん開示せずに、働き続けられる方もいらっしゃいます。
しかし、一度つまづいた時に、求職活動でハローワークに行くと「障害者雇用枠」の求人票を紹介されて、ご本人が余計に傷ついてしまうケースが過去にありました。

② 木村さんの考える「おかしい」ポイントは、なぜ変わらないままなのでしょか?

阿部:では、なぜ、障害のある人を“普通に”雇用することが出来ないまま、なのでしょうか?

木村:私たちの中に潜む「分けたい気持ち」があるからではないかと思います。

阿部:「分けたい気持ち」?

木村:一緒に対等に働くということについて、私たちは、「無理だ」と思っていたり、拒否感を持っていたりするのではないかと思うのです。
もしくは、「私は障害のことをよく分からない」、「障害に対する偏見もあるかもしれない」、そのような誰の中にもあるような「おもい」が優先された結果、“分ける”になったのではないかと思っています。

障害のある人には、なるべく1つの場所で、決まった業務をしてもらって、自分たちは、健常者同士で働いていく。その方が、予測不能なことは起きないし、今まで通りで考えることも少なくて済むのだと思います。

つまり、障害者雇用の枠組みを使っておけば、お互い「安心」なのではないでしょうか。

個々への対応ではなく、枠組みをつかって“分けて”おけば、配慮事項にも共通項が出てくるし、予測不可能なことを軽減できて、お互いの気持ちの整理がつきやすくなるのだと思います。

阿部:障害者雇用制度の枠組みを使って“分ける”ことで、マジョリティの人たちが「安心」を得ようとする背景には何があるのでしょうか?

木村:社会全体や会社全体の「余裕のなさ」ではないかと思います。
社会や会社全体に余裕がないので、変化球が来た時に対応できない。
例えば、その変化球が、「会社の社長」であれば、立場が上の人なので社員は対応していきますが、その変化球が立場の弱い人、例えば「新入社員」かつ「発達障害の人」の場合は、なかなか許容してもらえなくなる。

社会に目を向けて考えてみると、朝の通勤ラッシュの時に、車椅子やベビーカーを利用している人が同乗した際、「この電車は混んでるから、僕は次の電車でいいや」と譲れる人が日本に何人いるのだろうか?と考えたことがあります。もちろん、譲らなかった人たちが、“意地悪な人”だった訳ではないと思いますが、日本の社会全体が時間に対してきっちりしていたり、遅刻を良しとしない文化の中で、一人ひとりの思考と行動にも余裕のなさが生まれているのではないかなと思ったりします。

以前、視覚障害の人からお話をきいたのですが、「就職して直ぐのころは、みんな食事に誘ってくれて、ここにお皿とお箸があって…とか、様々に支援してくれていた。でも、2か月経過したら、どこの会社でも、誰も誘ってくれなくなった。」と聴いたことがあります。

私が、そのお話を聴いたときに、誘わなくなった周囲の人の気持ちも分かるようにも感じました。

阿部:どういうことでしょうか?

木村:自分の昼休みに、なんでそこまでしなきゃいけないんだろう…自分一人で自由に時間を使いたいのに…そんな気持ちがあっても当然なのかなと思うんです。だから、もうちょっとその部分で「今日は、少し長めの休憩にしていいよ」と言えるような会社全体の余裕や、社会全体の余裕があったら良いのかなと思うのです。

私たちは、決まり事やルールの中で生きていて、そうせざるを得なくなってしまっているように思うし、その先に、今の障害者雇用の問題ってあるように思います。

阿部:社会全体の生きにくさが、弱い立場にある人たちの生活に現れる、といった感じでしょうか?

木村:そうですね。決まり事やルールに縛られた「余裕のなさ」も感じるし、障害のある人とない人を“分ける”ことでしか一緒に働けない「余裕のなさ」とも言えるのだろうと思います。

阿部:“分ける”ことでしか一緒に働けない「余裕のなさ」について、もう少し教えてください。

木村:分けてしまえば、余裕がなくても、自分の部分は確保される。しかし、分けないと余裕のない自分に色々と降りかかってくる。そして、その余裕のなさは、やっぱり周りに「迷惑をかけてはいけない」という私たちの意識から来るのではないかと思うのです。迷惑をかけないことが良いことで、自立した人間であるべきだと子どものころから刷り込まれているのだと思います。

「余裕のない社会」に生きていて、かつ一人ひとりが「迷惑をかけてはいけない」という意識のもとで生きているとすれば、ちょっと変わったこと、先ほど申し上げたような変化球に対して、それが利害関係のない相手であれば尚のこと、受け止めることは難しいのかなと思うのです。 

ただ一方で、そのような余裕のない社会は果たして、「豊か」な社会なのか?と思ったりもします。

阿部:「社会が豊かである」ことのイメージを教えてください。

木村:豊かさって、迷惑を受け入れられる、許容できるってことなのかなと思っています。「迷惑をかける」ということと、「豊か」であることはたぶん関係していると思うのです。

阿部:「豊かさ」は、「社会が成長していく」とも言い換えられますか?
その意味で、“分ける”ことは、社会が成長する機会を逸してしまうということなのかなとも感じます。

木村:そうですね。障害者雇用の場面で考えると、「分けること」と「豊かであること」が反対のベクトルなのだと思います。そういう意味では、勿体ないなと思いますし、“分けて”働ければ、お互い「安心」かもしれないですが、安心であることと引き換えに、私たちが「失っているもの」もあるのではないか?とも思います。

阿部:私たちが「失っているもの」には何があるのでしょうか?

木村:“分ける”ことで、障害のある人は、ご自身の“プライド(尊厳)”を失っているかもしれないし、私たちも、「安心と思う場所」に居続けることで、“お互いさま”という感覚やその感覚を体験できる機会を失っているのではないかと思います。

きっと、私たちが生きていく上で、人に面倒をかける、お世話になることは多くあるにもかかわらず、今の社会では、「迷惑をかける/面倒をかける」ことについて、とてもマイナスの価値になっているのではないかと思うのです。その結果として、社会がやせ細っていくのではないか?とも思います。

そして、残念なことに、「分けて働く」現実について、マジョリティ側の人は誰も困っておらず、変化の必要性を感じない一方で、それによって苦しんでいる人がいることも事実であると思います。

阿部:“分ける”ことで、私たちは成長する機会を失っていることを認識する必要がありますね。

木村:はい。人間は、言葉を操れるからこそ、「AとBは違う」と表現することが可能になるし、それによって個を捉えやすくなるのかもしれませんが、“分ける”ことで生まれる弊害を認識すること、そして、その“分ける”という行為について、問題提起していく視点は必要なのだと思います。

“分ける”という行為について、無自覚であってはいけないと思うのです。

阿部:「分ける」ことに対して、それを当たり前にしない、ということですよね。「法定雇用率制度」や「特例子会社制度」があると、“分ける”ことが当たり前になってしまって、それ以上の議論になりにくい。また、言葉で“分けて”、ラベリングした方が私たちは認知しやすく、考える上での効率も良くなる。実際、「“精神障害のある社員”には、あまりプレッシャーを掛けない方がいい」や「仕事以外では、一人にしてあげるのがいい」といったステレオタイプ的な助言はよく耳にしますよね。

③ 「おかしい」ポイントは、どうしたら解決できると思いますか?解決には何が必要だと思いますか?

阿部:どうしたら、障害のある人を“普通に”雇用することが出来るようになるのでしょうか?

木村:「障害の有無に関わらず、私たちが、専門家ではなく、“生活する人”になれたらいいな」と思います。

「生活する人」というのは、自分自身に起こる様々なライフイベント(学習・就職・引っ越し・結婚・出産・育児・介護等)に対して、専門家や制度を上手に活用できる人のことです。

例えば、うつ病の人が精神科の先生に就職活動について相談したら、「まだ君にはフルタイムの就労は早いね」と言われてしまった。その時、主治医に「無理」と言われたから就職活動はやめよう、ではなくて、主治医の意見を自分自身の中で消化して、自分が「生活する人」として、その意見を活用することが大事だと思います。主治医に対して「フルタイムで働くためには何が必要なのでしょうか」、「障害者雇用でXXXのような配慮をしてもらえればフルタイムは可能と思いますがいかがですか」と自分から聞けるようなイメージですね。

別のケースで考えてみると、これまで自分自身が「発達障害」であると思っていなかった人が、「発達障害」と診断されて、すごく安心したり、ようやく腑に落ちたと感じる場合もありますよね。そこから自分の生き方を見つけていったり、生きやすくなる人もいらっしゃる。

このように、「これが専門家の見解ですよ」とか、「これが社会制度ですよ」という前提の中で生きていかなくてはいけない、という視点と、自分がより良く生きていくために、その制度や専門家の意見を活用していこうという視点は大きく違うと思います。そして、そこから何かが生まれてくると思うのです。

阿部:面白い視点ですね。“普通に”雇用される社会を作っていく上で、まずは、当事者の皆さんにスポットライトをあてていらっしゃるのですね。

木村:その方の状態によっては、“分ける”こと(障害者雇用枠での就職や医師の診断書を得ること)で、自分のことが理解できたり、ご本人が安心感を得られることもあると思います。でも、それは、「私は障害者だから、障害者雇用枠で“しか”働けないんだ」ではなく、「自分自身が安心して働いて生活するために、 “分ける”ということ(障害者雇用制度)を積極的に活用しているんだ」というご本人の自覚のもとであって欲しいなと思うのです。

阿部:“分ける”ことで、ご本人が安心感を得られることもあれば、障害のある人と働く場を“分ける”という選択肢を取ることで、マジョリティ側(障害のない人)の「分けたい気持ち」を満たしている側面もあると思います。マジョリティの人たち(障害のない人)も、“分ける”という働き方を選択していることに、もっと自覚的であるべきだということでしょうか?

木村:はい、その通りです。“分ける”ことは常識ではないし、“分ける”ことが、正しいことでもないと思います。そして、私のような支援者はもちろん、障害がないとされる人たちは、「相手(例:障害のある人)のために“分ける”。“分ける”方がいいことでしょ…」といった発想をしてはいけないとも思います。例えば、「あなたは障害者なんだから、障害者雇用枠(もしくは特例子会社)で働いた方がいいのよ」という発想をしないということです。その働き方をご本人自身が選び取ることが大事であると思うし、私は障害者雇用制度を活用しません、という人がいても良いと思うのです。

なぜ“分ける”のか。

私たちは、その問いに無自覚であってはいけないと思うし、そこは問わなくてはいけない点であると思うのです。ただ、障害者の法定雇用率制度や特例子会社制度といった社会制度があると、どうしても“分けている事実”が見えにくくなるようにも思います。

④ 「おかしいポイント」を越えた先にある社会/障害者雇用の姿として、どのような絵を描かれますか?

阿部:それでは、障害の有無に関わらず、“普通に”雇用することが出来るようになった時の社会/障害者雇用の姿を教えてください。

木村:最初に思ったのは、見た目では、何も変わらないのではないか、ということです。障害者に関する様々な制度があったとしても、それを押し付けられるものではなく、皆が自分の意志でその制度を活用出来ている状態
一人ひとりがイキイキとしていて、常識に縛られずに、思った通りの生き方が出来ているイメージです。
みんなが主体的に制度を活用し始めた結果、社会制度が変わってくる可能性もあるのだろうと思います。ただ、個が変わっていった時に、社会はどうなるのだろう?ということは、正直、まだ考えきれていません。

阿部:たしかに、社会が賑やかになりそうですよね。私たち一人ひとりが無自覚に制度を受け入れない、ということでもあるので、「私にとってこの制度は使いにくい!」といった声がどんどん上がってくる社会になりそうです。

木村:そして、賑やかな社会になったときには、同時に「失敗の出来る社会」になっていたら良いなとも思います。いまは失敗がしにくい社会だと思うのです。それが障害のある人の場合だと余計、失敗出来ないとも思うのです。

例えば、知的障害の方で、もう私は知的障害ではないと思うから、手帳は返納して、一般企業で健常者として働きたいといって、特例子会社を辞めようとしている人がいるとします。
このケースは、一般的に考えたら、会社の人も支援者もみんな反対して、「いまは守られているから働けているのであって、一般枠での雇用になったら大変なこともたくさんあるし、配慮もしてくれないし、無理だからやめといた方がいいですよ。」と助言すると思います。
みんなが善かれと思って、ご本人に「失敗しない選択肢」を勧めるイメージです。

でも、もし「生活する人」の視点に立って考えるならば、その人の希望通り、一度、手帳を返納してみて、会社を辞めてみても良いのではないかと思います。

もちろん、その方のこれまでのお話を聴いていれば、「失敗するだろうな」とは思うけれど、本人の思う通りにやってみて、失敗してしまったら、「あなたが決めたことでしょ」と突き放すのではなく、もう一度、専門家を活用しながら手帳を再取得して、障害者雇用枠の仕事にチャレンジ出来る社会になれたらいいなと思います。

健常者であれば、3つ4つアルバイトに失敗して、そこから自分の向き不向きを知って、新しい職種についてみたり、条件の違う求人に応募してみたり、色々と試行錯誤ができますが、そのような経験は、障害者には許されません。仕事に失敗すると大事になって、急に支援されてしまう。人によっては、ケース会議をして、就労移行支援事業所に入り直して2年間のトレーニングが必要、とアセスメントされてしまう方もいらっしゃる。それも不自由だなと思うのです…もっと失敗できたらいいのにと。

阿部:失敗を見守る姿勢が、大事ということですね。「いつでもSOSを発してね」とご本人に伝えつつ、その方の失敗を見守る支援も大切になると。

先ほど、「おかしいポイント」を越えた先にある社会の姿として、木村さんが仰っていた「一人ひとりがイキイキとしてくる。思った通りに生きられる」というのは、失敗ができる社会が前提にあるからなのかなと思いました。失敗しても、再チャレンジできる社会への信頼感があって、それは、つまり、「余裕のある社会」ということなのかもしれませんね。

⑤ 様々にある「おかしい」を抱きながら、木村さんにとって、何をしたら今の仕事をやり遂げたと思えますか?

阿部:最後の質問です。障害のある人を“普通に”雇用することが出来ない社会の中で、木村さんが今の仕事をやりきったと感じられるのは、どんな時でしょうか?

木村:これからも「一緒にいられたら良いな」と思います。

阿部:具体的にはどういうことですか?

木村:専門家として答えをお伝えするとか、こちらが正しいですよ、と伝えるのではなく、モヤモヤしたり、失敗したときでも、目の前の一人ひとりの人と一緒にいられたら良いなと思います。

「そこにいる人になりたい。」

とても生産的ではないかもしれないけれど、何ができるとか、できない、ではなく、伝えることがあろうがなかろうが、そこに一緒にいるから、「困ったら来たらいいよ」と言える人になれたらいいなと思うのです。

阿部:なんだかとっても素敵です。福祉の根底にある考え方だなと感じています。
障害の有無に関わらず、社会の制度から零れ落ちて困っている人のそばに一緒に居続けていく。その姿勢を示すことが、“分ける”ことが前提になっている「障害者雇用制度」や「社会全体」に対する木村さんなりの問題定義であり、投げかけなのかなと感じています。

木村:はい。障害者雇用制度をうまく活用して自分らしく働ける人であるならば、それはそれで良いと思いますが、私が一緒にいたい人というのは、今の制度の中では、自分らしく働けずに、制度を活用できなかったり、制度から抜け落ちてしまう人たちです。そうした人たちのそばに寄り添って、これからも一緒に考え続けていきたいなと思っています。

阿部:木村さん、今日は本当にありがとうございました。2回に渡ってのお話、とても楽しかったです。

インタビューを終えて…

初回のインタビューから、とても深い内容のお話になりました。
私と木村さんが描く障害者雇用の「目的地」は、同じ行き先であると感じつつ、そこを目的地と定めるに至ったプロセスや、その目的地に向かいたいと思った動機は異なっていました。だからこそ、想いのある方々のナラティブな語りが大切で、Motivator100の目指す「(障害のある)人の語りが、組織の中に「対話」と「共感」を生み出し、インクルーシブな職場づくりを目指していく」ムーブメントが必要なのだと改めて感じる機会を頂きました。
次回は、一般企業で働く当事者の方が語る「障害者雇用の『ここっておかしいよね?』」です。お楽しみに。

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