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罪深き「時間」について思うこと

「時間の過ごしかた」について考えています。

きっかけは先日ご紹介した、アフリカタンザニアにありながら縄文マインドが浸透しているブンジュ村の教えを知ったことです。
そこに身を置いて食事をしていたとしても、ただその作業をしているだけで食べることに向き合ってない、すなわち君はそこにいなかったのだよ、と教えてくれる村の人たち。効率を求め君は物事を「こなして」生きていくのかと問いかけてくる。

まさに「心ここにあらず」の状態を指摘したブンジュ村の人たち。日本語には「心ここにあらず」という表現がきちんとあることにも驚きました。

あの動画を見てから、「これしながらあれする」ということを極力しないようになりました。したとしても、縄文の人もこれくらいならしたかなとということくらい。例えば発酵飲料ミキの仕込みにお米からおかゆを作りますが、加熱して混ぜている間に歌とか歌って美味しくなあれとか祈りを込める図はありだと思い、カタカムナを読みながら混ぜるという感じ。心が「このあと何してそれから・・・」と次のこと先のこと先のことにいかないように、今していることに向いあうことを意識しています。

そんなに急いでどうしたいのだろう。
料理しながら講義の録音を聞いたり、その間スマホが鳴ればそちらをチェックして、その時間していた料理も耳学習も中途半端になりかねない。
人生が白紙の塗り絵で時間の流れで塗りながら生きていくとしたら、薄くて速く粗いタッチ、白い塗り残しの多い絵が出来上がることだろう。
どうせなら塗り残しのない鮮やかな色を丁寧に塗っていきたい。

時間に対してやりたいことが多いからこうなる。
何とか工夫してやりたいことを全部詰め込むのが、わたしがよくやることでした。
でもどうだろう、メキシコ展行って面白かった!説明のボードの写真を撮ってきたからもう少し深く知りたい、時間を取って復習しよう。憲法講座で買った本をじっくり読んで、それから続編も買おう。忙しさにかまけてメキシコの復習も憲法の後学習もしていない。塗り絵スカスカ。

こういう人生を自分は望んでいるのか。
巨大な白い塗り絵を塗り残しだらけでいくのか。

小さいけれども丁寧に塗って、絵を完成させながら生きていくのか。

そうか、どばーっと自分に流し込んでも消化できなくてはならない。自分が満足いく出来ばえになるまで向き合える量は限られているんだ。いくらデュアル仕様にして頑張ったところでその時のその事象に心を向けていないと自分を見失ってしまう。

濃密な時を過ごすということは、たくさんのことを一定の時間に詰め込むことではない、一瞬一瞬を自分がそこにいて何かをするということに集中するということ。

人間の脳は自然界にないものに無意識でもストレスを感じると言います。
例えば直線は自然界に基本的に存在しないものだから、建物の中にいることも実はストレス。Youtubeなどをよく1.5倍速で聴いたりするあの早い音声、人工的な電磁波などなど。先日の虐待防止条例が提案された時もたとえ守らなかったとしてもそういう縛りがあって暮らしているとストレスになると思いました。

「時計」もそう。秒・分・時間・週・・・という風に区切られている現代社会。ここから外れては生きていけない。
特に今は太陽暦が世界標準、時計は一日を均等に24分割しています。この時計が中心で日没時間も日によって変わる。対して日本の和時計は昼と夜を6分割ずつにし、昼の長さと夜の長さが季節によって違うので一刻の長さが季節によって違うという自然に寄り添ったものでした。
時計の縛り、これもわたしたちに多大なストレスを与えていることでしょう。

もう少し生活をゆったりさせて、「今、わたし○○をしている」、自分と○○の対等の関係を楽しむことにしよう。
時計を気にし過ぎないようにしよう。そういえば和時計を手に入れると今年の抱負で言ったっけ。

このひと、金輪際時間守らないんじゃないか。
なんて思われそうですがw

ひとつのことを深く考えてみる。
ここにある気付きや幸せを満喫してみようと思います。



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