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医者になった理由と、おばあちゃん


「私はどうして医者になったんだろう」


「私はどうして絵本を書きたいのだろう」


と、最近よく考えている。これは知人や友人によく聞かれることの一つだった。


考えて続けていると、一つ、共通したことをふと思い出した。


祖母だ。

ひ孫をかわいがる、祖母 富美子 94歳 


父親は高校の数学教師、母は小学校の先生、三歳ずつ離れて兄、姉、私。いつも忙しく、家はまさに足の踏み場もなく片付いていた試しがない。私の記憶の中の母は、いつもちょっとピリピリしていた。


3歳で幼稚園に行き始めてから、しばらく母方祖母の家に帰る生活が始まった。祖母が、祖父の税理士事務所に連れて行って勉強をさせたり、公園で運動させたりしてくれていた。

「順子は三歳から絵本を読んでたよ」

「お弟子さん(祖母はお茶の先生をしている)も、お利口に読めるねって褒めてくれていたのよ」

こうやって、大きくなってからも何度も褒めてもらった。

私は末っ子で、親と2人でゆっくり話す機会は小さい頃はそう多くもなく。祖母は私にたくさんの愛情を注いでくれていた。

おばあちゃんと2人、食卓でに5円玉をたくさん出して「5円が1枚で5円ね。5円が2枚で、10円ね。5円が3枚だと…」と掛け算を教えてくれた。子供というものはお金が割合好きなので、まずまず興味を持って聞ける。

魚屋さんや、八百屋さんなどが入った地元のいつもの商業ビルで、一緒に買い物をしたことも懐かしい。

近くの公園で、「おばあちゃん、だっこしてー!」と言った日も懐かしい。

おばあちゃんとおじいちゃんが建てた家の縁側で、おばあちゃんが大事に手入れしてきたお庭を一緒に眺めていたのも懐かしい。

お茶のお稽古でお弟子さんたちがいる中、ちょこんと一緒に畳に座らせてもらっていたこと。見よう見まねでふくさを持たせてもらったりして、非常におぼつかない様子でお茶のお稽古をさせてもらったことも懐かしい。

私は、祖母からたくさんの褒め言葉を受け取り、愛情を受け取った。

絵本がすらすら読めることを褒めてくれたのは祖母、(と母)。

医学科の合格を一番喜んでくれたのも、祖母。

祖母が喜んでくれたことが、今の絵本を作ろうとすることや医者であることに、関わっている。


さて、どうして祖母が医者になったことをここまで喜んでくれたかということについて。

富美子の夫、研一の先祖は、「備中松山城の御殿医だった」、と言い伝えられていたそうだ。それで、2人が結婚する前後で「子供を医者にさせよう」と言っていたらしい。母は小学校教師、母の弟は税理士で研一と同じ職業と
なり、その夢は叶っていなかった。

私は少なくとも、小学校6年生の時には将来の夢は医者だった。それは卒業文集の中の「夢」でも書いている。そして、小学校6年の時の課題であった原稿用紙38枚にわたる「生い立ちの記」の中にも書いている。

「私を一番左右させたのが母方のおばあちゃんだった。おばあちゃんは私が中学校に受かったときも泣いて喜んでくれる人だった。おばあちゃんは、私が医者という夢をもとうとした時もとても喜んでいた。私はこれしかないと思った。」

「生い立ちの記」より

おばあちゃんに医者を勧められたのか、私が偶然言い出したのか時系列は分からない。


私が医者になることを決めた理由に、おそらく祖母が欠かせない。医者になった理由は、祖母だけではないけど。


そして、今の私になったのも、祖母の存在が欠かせなかったと思う。祖母がいてくれて、心から嬉しい。沢山の愛情には、感謝しきれない。


おばあちゃんの話を書くにあたり、おばあちゃんに許可をもらった。写真も含めて。


「順子が出して、自分が恥ずかしくないと思えるんだったらいいよ。」

94歳、恐るべしなのである。









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