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「向こう岸に渡ろう」

2024/06/23 長崎・諫早教会礼拝説教
マルコによる福音書4章35から41節
牧師 門田純

 
 みなさま、おはようございます。今日は牧師夫婦が研修のため不在となり、ご迷惑をおかけします。こうして説教原稿を書くのは久しぶりです。特に、諫早教会との兼牧が開始してからは初めてのことだと思います。腰を落ち着けて机に向かってみなさんの顔を思い浮かべて原稿が書けるということもまた大きな恵みだなぁと感じています。


  さて、今日の箇所は、簡単なようでいてなかなか難しい箇所です。さきほど朗読されたようにイエスさまと弟子たちを乗せた小舟が、嵐に遭遇するという場面です。シンプルに言って仕舞えば「イエスが嵐を鎮めて弟子たちを諭す」というだけなんですが、この場面の難しいのは弟子たちのなにがいけなかったのか、どうすればよかったのか、そして、この物語から私たちが何を受け取ったら良いのかということです。それを今日はみなさんと読み解いていきたいと思います。


嵐はかならずやってくる

 36節には「弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。」とあるとおり、今この何隻かの小舟にはイエスと弟子たちだけが乗っています。ここにはイエス様を信じ従っていくと決めた人たちの共同体、つまり教会が想定されているのです。


 その教会に問題が起きます。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」いまや教会という小舟は突風に揺られ波をかぶって浸水し始めています。このままでは船は転覆してしまう…。イエスさまと弟子たち一行はそんな危機的な状況に置かれています。


 そもそもこの冒険はイエスさまの言葉からはじまりました。この舟が出発したのはイエスさまが「向こう岸に渡ろう」と言ったのがきっかけだったのです。そこで、弟子たちは責め立てるように、寝ているイエスさまを叩き起こして言います。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」、と。この言葉には「他でもないあなたが向こう岸に渡ろうと言い出したんでしょう!」というニュアンスがあります。嵐がやってくるのはイエスさまの責任ではありません。嵐は放っておいても向こうからやってくるのです。


 わたしたちがイエス様に従っていくとき、どこかで「御心に従っているんだから問題は起きないはずだ」と期待してしまうところがあります。弟子たちの問題は「イエスさまと一緒にいて、イエスさまに従っているんだから問題なんて起きない」という前提があったことです。御心に従っていたって問題は起きるのです。イエスさまはわたしたちを災難に
合わせない方ではなく、あらゆる災難のなかを守られ、道を開いてくださる方なのです。旧約聖書を思い出していただければわかると思います。ノアも洪水に遭いましたが、方舟によって助けられました。モーセもエジプト軍に追われましたが、海の中に道ができて助かったのです。

 私たちの主はイエス

 イエスさまはわたしたちにとって災難を避けるための「お守り」ではないのです。イエス様は「救い主」です。わたしたちを根本的な意味で、滅びの道から救い出してくださる方であり、「主である方」なのです。つまりわたしたちの「主人」であるということです。でも私たちはいつのまにか自分自身が「主人」になり、イエスさまを私たちに従わせようとしてしまうのです。弟子たちの「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉にはこれが現れています。イエスに従っているようでいてイエスにすがっているようでいて、イエスを自分に従わせようとしてしまう。イエスに従うクリスチャンだからこそ、いつのまにか陥ってしまう誘惑がここにあります。もちろんイエスさまは、私たちの祈りを聞いてくださり、わたしたちが思うよりも良いもので満ち溢れさせてくださる方ですが、決してわたしたちの言いなりになるような方ではないのです。イエスさまはわたしたちの主なのです。


 イエスさまはご自分が主であることをあらわすために、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と命じられます。命じることができるのは、主だからです。ここでは直接的に命令しているのは風や湖ですが、同時に弟子たちにも「黙れ、静まれ」と命じられているようにも見えます。わたしたちが人生の危機に直面するとき、わたしたち自身が人生の主であるように全てを支配しようとして、それができずに心を騒がせてしまうのです。わたしたちの内に吹き荒ぶ嵐に対してイエスさまは命じられるのです。「黙れ、静まれ」と。イエスさまだけが私たちの心の嵐を鎮めてくださるのです。


恐れるものに愛はまっとうされない

 イエス様は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と弟子たちを叱りました。今日の箇所だけを読むとちょっと理不尽な気もします。「イエスさま、そりゃ嵐が来て船が沈みそうになったら怖いですよ」と言いたくなる気もします。もちろん怖い思いになるのは仕方がないと思います。でも、ここまでのマルコによる福音書を読んでみると、弟子たちはイエスさまが数々の人の病を癒やし悪霊を追い出しているのを目の当たりにしているのです。しかも直前の箇所の4章で何が語られているかというと、「種のたとえ」が語られています。これらのたとえでは、神の国・神様のわざは人々が知らないうちに、小さなところから起きているということを話しているのです。「目の前の状況にとらわれず、たしかにすすんでいる神のみわざを信じよう」という話がされているのです。それなのに、いざ目の前に危機がやってくると弟子たちは「もうだめだ」となってしまうのです。「さすがにこの状況はイエスさまでも解決できない」と。まるで、わたしたちが危機に直面したときとそっくりではないでしょうか。いままで散々神様に助けられてやってきたのに、新たな危機に直面すると「さすがの神様でもこの状況はどうしようもない」とわたしたちは勝手に神様の限界を決めてしまうのです。それに対して、イエスさまは「まだ信じないのか」と言われているのです。
 

 危機に直面した瞬間におそれを抱くことは仕方ありません。しかし、私たち自身がおそれに支配され続けてはならないのです。なぜなら、おそれが支配するところには愛がないからです。災難が降りかかり問題が起きて、恐れに取り憑かれたら次に人間は何を始めるでしょう?「原因を誰かに探し」その「誰かを責め」始めるのです。今日の弟子たちが「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と恐れを口にしたとき、イエスを責めはじめました。責めているとき、自分たちが神様に愛されていることさえ見失ってしまっているのです。ヨハネの手紙一4章18節にはこう書いてあります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」問題は危機がやってくることではなく危機の中でも恐れに支配されて神様の愛を信じられなくなることなのです。

 それに対してイエス様は嵐のなか眠っています。まるで赤ん坊がお母さんの腕の中で安心しているようです。どうしてこんなふうに眠っていられるんでしょう。イエスさまは生まれた時からずっと危機の中にありました。不衛生な馬小屋のなかで誕生し、すぐにヘロデ王に命をねらわれ逃げなくてはいけませんでした。でも、この人はどんな危機の中でも神様の御腕に抱かれてスヤスヤ眠ることができるのです。危機の中でも、神さまの愛に疑いを持っていないからです。ここに信仰があります。愛には恐れがないのです。


 神学生のころに、先輩の神父さんが「教会がおそれから始めたもので良い実を結んだものはひとつもなかった」ということを何度か繰り返してたのが印象に残っています。危機感や不安から始めたことは結果として何も良いものにつながらないというのです。考えてみれば当然なのですが、危機感や不安というものは「自分たちのため」にベクトルが向いていて、「誰かのため」には向いていません。

愛の冒険に出よう

 イエス様が「向こう岸に渡ろう」と言った時の「向こう岸」は外国人の土地でした。5章1節をみると「ゲラサ人の地方」とあります。外国人の地に向かうということは、ホームからアウェイに赴くことです。自分たちの常識や価値観が通用しないところに出て行くということになります。そんな状況ですから、なにも問題が起きないということはあり得ません。実際、到着した後も悪霊を追い出したことでトラブルに巻き込まれることになります。それなのになぜイエス様は向こう岸に渡ったのでしょうか?神の愛に出会って悪霊から解放されるべきひとがいるからです。イエス様は完全に「その人のため」にベクトルが向いているのです。危険を冒しても出かけていく。ここに愛があります。

 もし私たちが「自分たちのために、教会を居心地よく快適に自分たちに都合よく守りたい」と思っているなら、それのどこに愛があるというのでしょう。でも残念ながら日本の多くの教会がそう望んでいます。新しい人には来て欲しいけど、今までの自分たちの快適さだけは失いたくないのです。
 
 いま日本の教会という小舟にとっての危機とはなんでしょうか。人口減少という波が否応なく教会にも押し寄せてきています。インターネットの普及により、いい話を聞くだけならYouTubeで十分です。コミュニティに属し、わざわざ煩わしい他者と関わる必要性も見出しにくくなっています。教会員が減少し、財政難に陥り、このままではこれまでの教会が維持できなくなるという事態に直面しています。でも、これらは本当の問題ではありません。いえ、むしろこういった危機は必要なものだと言えるでしょう。だって危機がなければわたしたちは真剣に神様に祈り求めないのですから。それよりも、ずっとずっと大きな問題は、他でもない教会に愛がないことです。わたしたちがおそれにとりつかれて一番大切な愛を見失っていることです。だから外に向かっていく愛もないのです。


 わたしたちが神様から命じられている掟はただひとつです。それは「互いに愛し合いなさい」ということです。この世の常識では、自分に余裕があるときには愛することができて、自分に余裕がなくなったら愛せなくなるのが普通です。でも、わたしたちに託されているのはこれ以上の愛です。危機的な状況においてさえ愛することです。状況が悪くなっても愛することです。「どうして、そこまでしてくれるの?」という愛をまっとうすることです。

 なぜなら、それがイエス様さまの愛し方だからです。そのようにイエスさまはわたしたちを愛して下さったからです。なんども同じ過ちを繰り返し、神の愛から離れてゆき、どこまでも堕ちていく私たちのところに、傷だらけになりながら迎えに来てくださるのがわたしたちの救い主イエス・キリストだからです。それが十字架の愛です。でも、そんな愛も恐れるものには「まっとうされない」のです。「ここまで愛されていたのか」とその愛を受け取ったときにはじめて、わたしたちは神の愛をまっとうすることができるのです。


私たちの使命

 聖書にもあるように、わたしたちは多くの愛が冷え切っている時代に生きています。人々の間のあたたかいものが失われていく現代だからこそ、わたしたちは教会の外に向かって本物の愛を流していくことに意義があります。それは安全地帯からのものではありません。「わたしに余裕があるときだけ愛するね」とか「わたしに害がない限り愛するよ」というのは愛ではないのです。見返りを求めるのも本物の愛ではありません。「これだけしてあげたからわたしの期待に応えてよね」というのも愛ではないのです。本物の愛は、私たち自身が痛みを共にする愛、見返りをもとめない愛でなければなりません。なぜならイエスがそのように愛されたからです。

 イエスが愛したように「互いに愛し合いなさい」とわたしたちは命じておられるのです。私たちの使命は、これまでの教会の形を延命治療することではありません。快適で安全なところから飛び出して、イエスの愛によって真に愛し合う共同体をこの社会の中で築いていくことにあります。


「向こう岸に渡ろう」と、イエス様はあなたに呼びかけおられます。
これは嵐をともなう愛の冒険です。
居心地の良いところから出て、
不快でトラブルに巻き込まれるところへ出かけて行く冒険の旅に
イエスさまはわたしたちを招いておられます。


さあ安全や快適さをかなぐりすてて、嵐をおそれずに向こう岸に渡ろうじゃないですか。

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