B’z はだしの女神 歌詞解読
私の大好きなB’z。今回は裸足の女神を取り上げます。
これは失恋した女性に向けて詠んだ歌ではないかと思います。
で、男性の目線からになっていますね。
女性は失恋をして、夜通し泣きます。
『街中が裏切りにあふれてると・・・』
恋のステージに上がろうとすると、今まで仲が良かった友人さえも、突然非協力的になったり、妨害行為を行ったりすることがあります。友人というのは実は仮面で、自分が恋をするかしないかを見張っている監視役だったのではないか・・・という顔をのぞかせることもあるのです。
友達、というのは、良くも悪くも精神のスタビライザーみたいなところがあるんですね。だから、1人先にどんどん進んでいくと、友達を失うことがあるわけです。恋愛なんていうのは、その典型ですね。
何であんただけが幸せになるの?みたいな感じ。別に友達じゃないのに言われることもあるでしょうけど。
そこら辺の中学生や高校生も、あまりきれいなカップルとなるとつまらないのでやいのやいのいったりするし、ご近所さんたちもいろいろとしてくることもあるでしょう。
先に結婚をする時、友達に謝るということもあります。
全ての人が他者の幸せを願い譲り合い、喜び、祝福し合う社会であれば(今となってはそんな人たちがいるのは、何かがありそうで逆に気持ちが悪いかもしれません。)いいのかもしれませんが、現実はそう甘くはありません。
大抵足を引っ張る人間も出てくるわけです。それは意外にも、自分と一緒にいる、友達だと思っていた人でもそうなりえるわけです。
足を引っ張るのはものすごい簡単です。ゴミを捨てるのは簡単だけど、拾うのは難しい。金を使うのは簡単だけど、稼ぐのは難しいというように。
色々と妨害されるわけですから、こんなのでどうやって進んでいけばいいんだ!って拗ねるやつもいるわけですね。しかし、この女性はそういう理不尽さえも我慢し、気丈に振る舞っています。
周囲の裏切り、監視、そういった見えない拘束の中、彼女は、単に失恋のためでもなく、自分を失恋へと導く社会の裏切りにも心を痛めます。
裸足の女神。実際はどうかはわかりません。しかし、心が追いやられた人間は、自殺を考えます。その時、靴を脱いで裸足になりますね。本当にそこまで行ったのかというと、そうはなっていないと思いますが、そこに至るくらい激しく追い込まれてしまった、そういう女性を表現しています。
彼女の心は激しく傷つき、もう裸足になってしまっている。
その女の人を心配する男は、気丈に振る舞う女を見て、傷を隠そうとしないでいいと言います。
コミュニケーションを重要視する、B'zの態度がここでもよく表れているように思いますね。
どこまで走ればあの人に会える
おそらく、元々恋をしていた、いや、今でも恋をしている男性を追い求めています。それは、単純な物理的距離ではなく、とてつもなく遠い心理的な距離。様々な人の妨害に合い、裏切りに合い、きっかけすらもつかめなくなった、とてつもなく遠い場所にいる。
傷ついた自分の姿に気が付き、誰かが救いの手を差し伸べてくれないだろうか。誰かが気を利かせて、この妨害を取り払ってくれないだろうか。どこかに優しい人はいないだろうか。そういう期待もどこかに持ちつつ、心は彷徨うばかりです。
知らず知らず優しさ求め彷徨う
傷ついた人間は、それを癒してくれる人を望みます。
しかし、女性はなおも気丈に振る舞います。
はかないだけの強がりに見えるなら いっそ誰かに抱き着きゃいい
情けないヤジばかり 飛ばすだけの 暇人なんかよりゃよっぽどいいから
失恋した女性を周りは にやにやと笑って からかったり、
軽いヤジを飛ばしたりします。男でもこういうことはあるものです。
こんな人たちの前で 弱い自分を出したら、余計に揶揄われる
恋愛をあーだこーだ 他人を突っつきたがるのは暇だからです
あなたはそんな人達のことなんて気にしないで、もっと自分の傷を外に出してもいいと呼びかけています。もう、誰かに(その中でも自分に)抱き着くことで、胸の内を出していいと考えます。
何故気丈に隠そうとするのか。それは、彼女の失恋を小気味よく思う存在がいるからです。周りに対する警戒心が、更に彼女を追いこんでいきます。
痛みを知る眼差しは 深く澄んでもう 萎れることはない
この歌詞の意味はちょっと難しかったです。涙で目が溢れているのかな。だから、萎れることはないのかなとか思うんですけど、恐らく、物事の真実を見る目を言うのではないかと。よく、物事を誤解している人とか、直視できない人の目を、濁っている、と表現します。丁度その逆で、澄んだ目、というのは、真実を直視する目。現実を見つめる目を言います。
人は嘘に包まれたいと思う生き物です。逆に、嘘が取っ払われると、痛みを覚えます。私たちの体も嘘の塊でできています。これが無くなるとすれば、とっても痛いですよね。体の一部がなくなったりすると。人は失恋のダメージを軽減するため、都合のいい嘘を見ようとしたりすることもよくありますね。妨害行為も、これがきっかけになることもあります。なぜならば、自分の好きな人が他の人に取られることは、自分にとって都合の悪い事実だからです。自分を守るために、他者を妨害する行為に出るわけですね。
残念ながら、失恋とは多くの人に訪れます。大抵 恋をする対象は、他の異性からもモテることが多いです。そうなると、どうしても1対複数になるわけで、ライバル関係になります。
単純計算で、1人に対して3人の人が恋心を抱くとすると、2人は失恋します。
ただ、ダメージこそ深いわけですが、恋というのは一種の脳の異常状態でもあったりして、一時的な気分といえば、一時的な気分なんですね。
風に消されることの無い 喜びを探そう
恋愛に対して醒めた見方を感じさせる歌詞ですが、恋の痛みも喜びも、結局は一過性のものだ、と言っています。そういうふわふわ浮いた、風前の灯のような喜びじゃなくて、もっと足腰を鍛え、しっかりと土台を作るような喜びを一緒に探そうと呼びかけます。
すごいですね。恋愛は多くの人が興味を持ち、それに人生を賭ける人もいますが、確かに一過性のものです。恋愛にかなりの価値を置いている人からすれば、ただの負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、でも、確かにそうですよね。
この裸足の女神は、恋愛に絡んだ他者の裏切り行為にあう女性、それを受けながらも気丈に、表に出さない女性、そしてそれに胸を傷める男性の心を詠んでいるんだろうと。さしずめ、『消えない虹』と共通しているように思うところもありますです。ですが、じゃあその女性本人はどうなんかというと、他人の恋愛に対しても寛容だったのでしょう。
恋愛というのはいいものだと思われていますが、実際は魔物です。物語のようにうまくいくことはありませんし、人を醜く変えてしまうことがある、というのが普通です。逆に今の自分の恋愛がうまくいっているのは、様々な紆余曲折を経て、福引でガラガラと音を立てて当たった玉みたいなところがあるだろうと思います。
恋愛という魔物に、とりつかれもせず、傷つきながらも、彼女は前を向いています。そして一人静かに泣いています。
この女性は、他人の幸せを本当に心から喜べる人だったのでしょう。悲しいことに、少数派、変わり者かもしれませんね。男は、そういう女性をいとおしいと思っています。
この男は、そういう妨害行為全てを知っています。だからこそ、女性のこともかわいそうに思い、いとおしくも思っています。なぜならば、男性もその女性と同じだから。そのために、二人の距離は遠く放され、それに気が付いている男自身、その女と一緒になることもできずにいます。
だから、この歌詞の主人公は、その女性と、その女性が恋をした男性なのではないか(多分違う)・・・それを女性の失恋に視点を向けて歌っているのではないか・・・。そこに男性の視点を入れ、同じ境遇にいる二人を対照的に描いているように思います。
この理不尽に築き上げられた心理的距離。何とか埋まらないものでしょうか。
というのが、私の考えであり、詩の解釈であります。
う~ん。消えない虹にせよ、この詩にせよ、恋愛に対してストイックですね・・・。
で、付け加えですが、失恋した女性に対して、(この女性のせいじゃないんだろうけど)、どうして眼が深く澄んで、萎れることはない、といってなぐさめているのかというと、B'zはコミュニケーションを重要視する歌詞が多く、コミュニケーションを行うための前提としては、確かな事実を見ることが大切ということは言うまでもないことだからです。澄んだ瞳を君は手に入れている。そのことが、B’zからすれば重要なことなんだ、といいたいのではないか。そう思うのです。
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