小説「中目黒の街角で」 第34話
「正月、どうするんだよ?」
ぶっきらぼうな口調で夫に聞かれた時、身体が震えて何も答えられなかった。
夫のお母さんは悪い人ではなかったけど末っ子の彼を溺愛していた。さらにお姉さんも二人いて、そんな状況の中で知らない土地で過ごす時間を想像するだけで苦痛だった。
しかも田舎の大きな家で多くの親戚が集まる中で、嫁として一週間も滞在する事に恐怖すら感じていた。
しかし私の態度に不満を覚えた夫は強い口調でこう言った。
「お前が行かなくても心太は連れてくぞ。母さんは会いたがってるからな」
心太を連れていかれることは避けたかった。彼が面倒を見られるとも思えなかったし、離れたら二度と会えなくなるような気がしたから。だから私も彼の実家に行くことにしたのだ。
だけど毎日の憂鬱はさらに深くなった。でも、そんな私を支えてくれたのは山崎君だった。
この時、私たちの関係はキスをする以上に進展していたわけでもなかった。これ以上近づいてしまうと関係が崩れてしまうとお互いにブレーキをかけていたんだと思う。
だけど私は彼の気持ちに応えたいと思うようになっていた。週末に飲みに言っても話を聞いてくれて、一定の事以上を求めてこない彼の誠実さと、お店でもずっと様子を気にかけてくれる優しさに報いたいと。
そしてお店の営業が最後の日に、一人で帰ろうとする彼がたまらなく愛しくなって、我慢ができなくなった。
「ねえ。今日いいワインもらったの。一緒に飲まない?」
まるで初恋の時のように照れてしまったけど、山崎君は少し驚いた表情を浮かべた後、頷いてくれた。
今夜、彼に抱かれる。そう考えるだけで幸せが溢れた。その夜、夫のことは頭の中から消え去り私は本当に一人の女でいた。
鎗ヶ崎の交差点で待ち合わせをして、山崎君のマンションに向かった。ワインをカゴに入れた自転車は彼が引いてくれた。お互いに少し緊張していて、静かな八幡通りを歩いている時はいつものように会話は弾まなかったけど、これから数時間後に訪れる事への予感と期待に私は胸を弾ませていた。こんな気持ちは本当に久しぶりだった。十年前は山崎君に対して特別な感情はなかった。この十年の中で私が変わったのか。あるいは彼が魅力的になったのか。この時の私にはわからなかった。
でも、今考えればその理由はわかる。ひどい言い方をしてしまえば、私は助けを求めていただけなのだ。山崎君との関係にすがって、現実から逃げたくて。そして破綻はしていたけど結婚しているという事実の中で、他の男性に抱かれるという秘め事に酔っていただけだった。自由に振る舞えない中での恋だから。十年ぶりの再会だから。そんな物語に浸透することで現実を遠ざけようとしていたのだ。
山崎君が住んでいたのは代官山にある夜景の綺麗なマンションだった。静かに煌めく中目黒の街を眺めていると泣きそうになった。あの煌めきの中に、自分の不甲斐ない人生があると思うと戻りたくなくて。
「映画とか観る?」
「ううん。大丈夫。少しこのまま、静かなままがいいな。お店がいつも騒がしいから」
音も映像もいらなかった。ただ山崎君の匂いのする部屋で一緒にいるだけで幸せを感じることができたから。すると、山崎君がワインをグラスに注いで言った。
「今年一年。お疲れ様でした」
とても優しい言葉に溶けそうになると私は彼の肩に頭を乗せた。ずっとこのままでいられたら。点々と光る夜景の中になんて戻らず、この暖かさと優しさの中にいたい。それほどまでに私は山崎君を好きだった。
不意に抱き寄せられるとまた溶けてしまいそうな言葉が聞こえた。
「無理はしないで。君は誰よりも頑張っているから」
その言葉に全てが許された気がした。モデルをやっていた時も女優のレッスンを受けていた時もその後も。頑張っても、頑張っても理想通りにいかなかった人生の中で、こんな事を言ってくれる人はいなかったから。
今も、過去すらも受け止めてくれる彼の腕の中に収まらない理由はなかった。キスをされて抱かれている時、こうなるために私たちは再会したのだと確信していた。私は暖かく優しく、激しい逢瀬の中で彼との未来を描いていた。
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。