HIPHOPブーギー 第10話 WAV結成
プロデユーサーの今井はすげえ細かく厳しかった。もう五十代だって言ってたな。さすがに長く音楽業界にいるだけあって妥協を許さなかった。ただの偉そうなおっさんかと思ってたがとんだ勘違い。ちょっとしたピッチのズレ、歌詞の言葉使い、喝舌、感情の入れ方。すべてにおいて要求があった。
俺らは黙って言う事を聞いた。もちろん、始めのうちはムカついたがやってやるって決めてたし何より時間が経ってくるとこの人も音楽が好きで、スゲー真面目に取り組んでいるって伝わってきたんだ。ついでに、90年代のHIPHOPブームの時にヒットした曲のプロデユースを多く手掛けてたって事実が、俺らの疑いを簡単に晴らせた。
いやあマジ大変だった。今までのハーコーラップはほとんど全否定だった。例えば「てめえら」は禁止。「ついてこい」もなし。とにかく一般人の日々を想像して歌詞にしろって言うんだ。ラップも一本調子はダメ。シャガレ声なんてもっての外。
曲の展開を意識してラップでもAメロBメロを作る。フックもメロディー。歌うのが一番難関だったかな。何せ俺はシンガーじゃない。ボイトレはマジ過酷だった。
トラックもレコーデイングしながら変えられてった。マイナーコードを使用した曲には必ずストリングスが入ったし、ただのループで推し進める曲はボツ。バイブも苦心してた。
だけど、それはそれで慣れてくると楽しかった。スタイルは違えど音楽の新しい世界を見れる事は新鮮だった。
それに、自分達の曲作りがどれだけ不真面目であったかにも気付かされた。言葉尻の一つ一つ。メロディーの一音一音。プロはこれほどまで細かいところに気を配り作り上げてるって言うのを知らされた。
思い返せば、家でトラックを作ってる時は「ま、これでいいか」って終わらせる事がよくあった。多くの人間に響かせる事を前提としたディテイルの大切さを知った。今井は女シンガーのレコーデイングん時は生理の周期も調べるって言ったな。生理が来る前が一番切なくて良い声が出るんだと。マジ変態かとも思ったくらいさ。
さながら学校だったな。俺達は自分達のアマチュアさ加減を恥じるほどだった。そこに妥協なんて言葉は一切なかった。
それと付随してプロモーション。パブリックイメージの進行もされて行った。担当は宣伝の吉田とマネージャーの岡本。こっちはほとんどまかせっきりだった。
ダボダボB‐BOYスタイルは却下。ホッソイパンツ履かされてイケメン風。バイブは似合わねえハットをDJ KANOKO風(MIXがバカ売れしてる女DJ)に斜めに被らされて、俺は髪を伸ばさせられた。
出来上がりの写真見て笑ったぜ。これじゃあまるで坊ちゃんラッパーさ。ただ、否定はできなかった。確かにこれは同世代の真実の姿ではあると思った。
ユニット名も決まった。つーか俺らにはユニット名がなかった。何故かそれまで考える気もしなかった。「ワールドとサーバイブ」それでいいじゃねえかって思ってたんだ。だけど流石にそればっかりは口出した。名前は大事だ。そんで二人で考えた。
「ワールドサーバイブ」
第一案はこれ。ファーストアルバムのタイトルそのまんま。だけど却下された。HIPHOP過ぎるってんだ。そんでしょうがないから縮めて、「WAV」ってのはどうかって。音楽ファイルの名前と掛けてな。したらあっさりOK出たね。ま、俺らもそこまで考えたわけじゃなかったから、それで行こうって。呼びやすいし。
そんなこんなで、デビュー前の準備には半年かかった。気が付いたら俺達は大学四年になってた。当然就活なんてしてねえ。周りからは就職決まったって話をチラホラ聞くようになった。そん時に後戻りはできねえって思った。だけど、それでいいって感じだった。フォローは完璧だった。周りに溢れるプロ集団。それに応える為に必死になった俺らの努力。ブレイクを疑う余地はなかったし自信もついてた。
デビュー日が決まると、俺は姉ちゃんに初めてプロになる事を話した。そしたら姉ちゃん泣いて喜んでた。俺も思わず泣いた。バイブの親も泣いたってさ。親戚をアメリカから連れてくるって大騒ぎ。
俺らは身近な人間の笑顔を見たその瞬間に、まだ残っていたデビューへの不安や周りの人間が大人になってゆく中での焦りを清算した。こうして、俺達はプロになる為の覚悟を決めてった。
デビューシングルのタイトルは・・・はは。聞いて驚け。「あの光よりもタカク」よ。なんだかそれっぽいだろ?歌詞はこんな感じ
Aメロラップ
例え僕がいなくとも この世界は変わらない
例え僕がいなくとも この世界は終わらない
悲しみを空に流しても この心は変わらない
あの星空はいつでも 光る事をやめはしない
Bメロラップ
そう思っていたのは束の間 君と出会った時から
僕の世界は変わり 優しい自分に気付くTWILIGHT
この想いは消えない さえない僕は変わると誓うよ
全てに色を添えた その笑顔を失くさない為に
サビ
あの光よりタカク 君を導くのさ
涙さえも 輝く様に
その手に止まる 鳥が囁く
いつまでも消えない愛を
Cメロ
君がもし涙を流す時は
僕が傍にいるから
遠くに見えるあの星空を
その手の中に・・・止めどなく
信じれるか?俺が書いたんだぜ。ラヴソング。ミディアムテンポ。ピアノサンプルとサビにはストリングス。Cメロまでサービス。
韻にはそこまでこだわらなかった。つーかこだわるなってな。とにかく解りやすい言葉で書けって今井が言ったんだ。何回書き直させられたかわかんねえ。しかも俺、歌ってるし。
今井はこの曲が出来上がった時、俺らを初めて褒めた。
「やっと正直になったな。これなら届く」
相変わらずの偉そうな口調だったが俺達は単純に嬉しかった。厳しい教師に褒められた感じ?何か一つ殻を破った気がした。
とんとん拍子に、タイアップも決まった。さすがのプロ。宣伝担当吉田とマネージャー岡本。CMで数秒サビが流れるだけだったが新人には異例な事よ。会社もマジだって思ったね。
不思議な感じだったな。こん時は何もかもが上手く運んで行った。充実してた。プロモーション活動でCD屋やラジオ局の人間に頭を下げるのも苦にはならなかった。周りのスタッフも必死で、そんな中やってらんねえなんて言えるはずもなかったし、その一つ一つが確実に未来の成功に繋がっているような感覚があった。
イベントをやってる時も充実感はあった。だけど、どこか不確かな未来に向かっているって不安は拭えなかった。このままでいいのか。この道で、このやり方でいいのか。日々そんな悶々とした空気は付きまとってきた。
だけど大人達の中で、プロの中で自分達のやっている事が形になってゆく様を目の当たりにしてゆくと不安は生まれなかった。大きく確かな流れの中に入ったって感じ?それがほとんど自らの力だけではなく誰かに作られたものだとしても、その充足感と心地良さを疑うような事はなかった。
なのに「あの光よりもタカク」はチャート初登場16位だった。ITUNESのチャートもかなり下の方だった。正直こんなもんかって思った。当然俺達はいきなりベスト3くらいに入るって思ってた。どんだけプロモーションで全国廻ったと思ってんだ。
「お前らよくやったな。上出来だ」
だけどプロデユーサーの今井はこの順位に満足そうだった。他のスタッフも同じだった。
「なんだお前ら、不満そうだな」
そりゃそうよ。十五位なんて次の週にはランク外になってんだろう。正直けっこうショックだったんだ。スタイル変えて、あんだけレコーデイングがんばってこの程度かって。したら、宣伝の吉田が言った。
「二人とも。この結果は上出来だよ。君達みたいな無名の新人がいきなり二十位以内なんて最近ではありえない。ダウンロードチャートも上位だ。これだけCDが売れない時代にここまでなるのは凄い」
そんで気付いた。この結果は周りのスタッフの努力の賜物だってな。スタッフが走りまわってくれたから二十位以内に入ったんだって。俺達なんて連れられたところで、「よろしくお願いします」って言ってたに過ぎないって。
いい曲ができたからって何もしないで売れる時代じゃない。プロモーションが命なんだ。走り回って媒体に曲を流してもらって、SNSで拡散するように仕掛けてもらって。どんだけ人に聴いてもらうかが勝負よ。スタッフの働きがなければ俺らはランク外だったかもしんない。
「すいません。次もがんばります」
いきなり馬鹿みたいに売れて有名人になるって妄想をしていた自分がひどく幼稚に思えた。結局、俺らはまだ音楽業界の現状を理解していなくて浮かれてただけだって。
したら、今井が思い出した様に言った。
「大丈夫だ。まだ、CMも流れてない。これからランクが上がる可能性はある。あの曲はいい曲、売れる曲だからな」
俺らはその言葉を俄かに信じはしなかった。そんなおとぎ話信じるくらいなら、もっと曲作ろうって思ってた。このまま消えてしまう事への危機感があったんだ。プロらしくな。
したら、今井の言う通りに、そのおとぎ話はドキュメンタリーになったんだ。
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。