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人生の宿題を鹿児島で終える

どんな旅も楽しい。

子どもの頃はまともな家族旅行もできなかったせいか、はたまた乗り物にはめっぽう弱く、遠足のバスではいつも酔って、吐いて、ぐったりして、楽しみな弁当も半分味がせず……という経験をしてきたせいか、自分が長い旅に出る、というイメージができなかった。

だが、人生は分からないもの。きっかけはあのシベリア鉄道だろう。初めての海外旅行先はあまのじゃく精神を発揮してソビエト社会主義共和国連邦、いまのロシアだった。みながアメリカ、アメリカというから逆に向かいたかった。ハバロフスクからモスクワまでガタゴトガタゴトと1週間。地球を約4分の1周。乗り物が得意ではなく海外初体験の私にとっては、途方もない冒険に近い旅だった。

そこで旅に噛まれたのだ。その痛がゆさはずっと肌に刻印され、痛がゆさが薄れてしまうと、また噛まれてみたいと思ってしまう。現に、いまもソウルの地に住んでいるが、これもその旅の延長線上にある。

若い頃はアルバイトで貯めたなけなしの金を握りしめて、一人でバックパックを担いで海の向こうを歩いた。家族ができると、それなりのホテルに泊まり、うまい飯を食い、観光地を一緒に訪れる楽しみを知った。年を取ってくると、重い気持ちを抱えた旅も増えるが、それでも語弊を恐れずに言えば、遠くへ移動するという行為の中でふと旅情を味わう自分がいる。

だが、あの鹿児島への旅は違った。

行きたいような行きたくないような、行ってはいけないような。これまでの来し方を振り返りながら、自分の中で決着がつかない複雑な気持ちを抱えたままの出発。後にも先にも、あんな困惑した気持ちの旅は二度とないだろう。

***

娘の寝顔を見て母に会いたいと強く思うようになったことは前回書いた。遅くにできた子で、私はまもなく40歳を迎えようとしていた。人生の中で、立ち止まらなければならないときがある、とその時思ってしまったのだ。時間は容赦なく過ぎてゆく。いつかいつかとごまかし続けてきた気持ちに、踏ん切りをつけなければならない。

居たたまれない気持ちを抑えきれず、意を決して妻に告げた。母に会ってみたい、と。妻は快くその気持ちを酌んでくれたが、次は父の番だ。これまで育ててもらったことは感謝しても仕切れないが、母への思慕の念も抑えることはできなかった。父に義理を通すことで、自分の中でのけじめをつけたかった。

奈良に帰った際、思い切って父に気持ちを打ち明けた。「母を捜したい」と。父はそれを快く思っていなかったようだ。「お前を置いて出て行った親やぞ」となじるように私を叱責したが、最後は折れるような形で許してくれたように思う。私に直接「捜してみろ」とは言わなかったが、妻に対してはそういうニュアンスで話していたようだ。その父の気持ちを知ったことで、妻も私の母捜しに全面協力してくれることになった。

それまでの人生、自分にないものや足りないものを「探して」きたが、40になってやっと過去に置き去りにしてきた大切な想いを「捜す」旅に出ることになった。

母が今どこにいるかは全く分からない。どころか生きているかどうかも定かではない。三十数年の月日の中で、いろんなものが変化しているはずだ。わらをもつかむ思いで、戸籍をたどれるのか調べてみることにした。まずは母と最後に暮らした奈良の小さな役場に連絡を取った。そんなに簡単に教えてくれるのだろうかと最初は不安だったが、「私はその人の実の息子で、母親を捜している」と伝えると、役所の人は親身になって対応してくれた。

戸籍の附票(本拠地の市町村に戸籍の原本と一緒に保管されている書類。その戸籍に入籍してから現在に至るまでの住所が記録されている)を取り寄せれば、今の住所に行き着くことができそうということも教えてもらった。母が引っ越した先でまた役所に連絡する。手続きはすべて郵送で行われ、毎回じりじりとして書類を待った。

当然のことだが、私の知らない母のことが少しずつ分かってきた。私の家族としての項目にはバツがあり、別の戸籍に入り、別の家族ができ、子どもも娘が一人、息子も一人いることが分かってきた。

そういった事実を突きつけられると、会うことをためらってしまう。一生会わなければ、再会のよろこびを味わうことはない代わりに、傷つくこともない。人生にこれ以上の波風は立たない。逆に、会えばその現実を全て背負うことになる。母には新しい家族がいることを思えば、なおさらだ。今の家族を優先して「お前にはもう会いたくない」と言われるかもしれない。そう思うと、次の行動に進む気持ちが萎える。

そんなある日。秋葉原にあるイタリアンレストランで妻と語り合ったことを覚えている。私は素直に伝えた。「戸籍をたどっていけば、住所はつきとめられると思う。けど、やっぱり会わない方がいいのかもしれない」と。

先に進むか、進まざるべきかを考えあぐね、しばらく時間を置くことにした。

だが、いくら考えてもその答えは出ないのだ。行くも地獄、行かぬも地獄。ならば、行って地獄を味わう方が後悔はないはず。と思い、母の現住所に行き着いた。別の名字を名乗る母の住所を知ることができた。手紙を書くことも考えたが、その住所と新しい母の名字を付き合わせて電話帳で調べると、それらしき名前の固定電話の番号も分かった。

私と母は真反対にいた。私は東の東京に、母は西の鹿児島に。

電話番号は分かったが、ここでうまく伝えなければ全てが無に帰することになる。その役割を妻が買って出てくれた。誰が出ても、妻ならうまく取り次いでもらうことがきできるだろう。

何度か呼び出し音が鳴った後、しばらくして女性が出た。母だった。が、私のことを知らない、と言って切れてしまったという。三十数年ぶりに息子と名乗る男がいきなり知るはずのない電話番号に連絡してきたのだ。それは驚くだろう。

今度は私が電話番号を押した。母が出た。息子だと伝えた後、小さい頃の母との些細なやりとりを思い出して伝えた。

「右手か左手の付け根のとこに鉛筆の芯が入ってるやろ?」

小さい頃、母の手の腹の辺りに黒いものを見つけて聞いたところ、「おかあちゃん、昔何かの拍子にここに鉛筆の芯が刺さってな。取れへんようになってしもたんよ」と母は言ったのを覚えていた。その黒い色もまざまざと思い出された。

この言葉がきっかけになって、母は少し打ち解けてくれ、息子からの電話を歓迎してくれた。その電話で具体的に何を話したのか覚えていない。ただただ、この電話につながっているのが母の声だという事実を受け入れるのにも苦労した。そんな日は一生来ることはない、とどこかで達観していたためだろうか……。

母の当時の配偶者はがんを患い、もう余命幾ばくかの状態だった。看病の合間に家に帰ったら電話が鳴った。贈り物をしてくれた人かと思って出てみたという。あの時、もし母が電話を取ってくれなければ、またいたずらに時間だけが過ぎ、ひょっとしたら別の展開になったいたのかもしれない。とにかく一度会いたいという申し出を、母は受け入れてくれた。

その夜は眠れなかった。仕事と育児の両立疲れの妻は、寝息を立てている。夜中にひとりビールを開けて飲んでいると、娘が起きてしまった。仕方ないので、私はビール、娘はいつものピンク色のプラスチックのコップで乾杯した。まだ2歳ちょいの娘と、不思議と会話が成り立つ。「パパね、パパのお母さんと、ああお前のおばあちゃんと、久しぶりに会うことになったよ。一緒に行こうな」。

娘はずっと私の一人語りに付き合ってくれた。その時の娘は「うん、うん」とうなずいてくれた気がする。その時の娘は、自分の娘であって母でもあるような、同志であふような、とにかく自分を包んでくれる心強い存在に感じられた。

早速、休暇を取るために仕事を調整し、鹿児島に行く日程を決めた。生きているかどうかを知れれば十分、声を聞ければ十分、と思っていたが、どうなろうと会いたい気持ちは抑えきれなかった。

母と連絡が取れた翌日から鹿児島へ向かうまで、困ったことが一つあった。いつものように朝の支度をして会社に向かうと、通勤途中の道で涙が出る。道ならまだいいが、電車に乗っている途中にも涙が出そうで、隠すのに苦労した。ふとした瞬間に、涙がにじむ。そんなことが出発前日まで続いた。

鹿児島へ向かう当日は落ち着かなかった。できるだけ早く到着したいと思う気持ちより、ためらいの気持ちが勝った。鹿児島空港に降り立ってもそれは変わらず。ゲートに向かう足が重い。妻に言う。「引き返そうか」。それは冗談半分、本気半分だった。

向田邦子の「眠る盃」に収録された短編エッセーの「小さな旅行」にこんな一節がある。

旅は飛行機でない方がいい。
三月ほど前に、鹿児島へ二泊三日の旅行をした。小学生の頃、二年ほど住んでいたことがあり、住んでいたうちや先生、級友を訪ねるセンチメンタル・ジャーニイであったが、子どもの頃、鼻の穴を真っ黒にして二十八時間もかかって行ったのが、わずか一時間四十五分の空の旅である。間にははさまる四十年という歳月や、体に残る「鹿児島は遠い」という感覚がチグハグになり、いやに近すぎて有難みが薄いという感じが残った。

この文章を再読して、「旅は飛行機でない方がいい」という一文に未来を予言しているようでハッとさせられるが、私もこのとき、同じ思いでいた。せめてもっとゆっくりゆっくり鹿児島に向かいたい、と。この三十数年の歳月をまき直すのに、2時間弱は短すぎる。

意を決してゲートをくぐると、目の前に自分と顔も骨格もそっくりで髪の長い女性が立っていた。父と自分は親子なのにあまり似ていないと思い続けていたが、こんなところに似た人がいた。

とりあえず喫茶店に入ってお茶を飲んだ。何を話せばいいのか。泣き崩れてしまうかと想像していたが、不思議と涙は出なかった。いままでずっと心の奥底で泣き続けたせいか。この数週間で泣きすぎたせいか。なじるにもなじり切れない。緩慢な時間が過ぎていった。

ただ、三十何年ぶりに自分の口で「お・か・あ・ちゃん」という声を発した。ぎこちなかった。おめかしして出かけるときのよそ行きの言葉になった。それはなんだか、自分で発しておきながら遠くから聞こえるような気がした。

家に上げてもらい、料理を振る舞われた。だが、私は母の味を知らない。懐かしいという感情がこみ上げてこない。写真も見せてくれた。そこには自分が知らない「家族」と笑顔で写る母の姿。いまの旦那さんが入院する病院を訪れて挨拶をする。全てが現実ではないような。母との関係を近づけているようで、近づこうとすればするほど遠ざかるような感覚があった。

それでもこの数日間は、母との時間だ。鹿児島随一の繁華街である「天文館通り」を歩き、娘が大好きな魚を見に鹿児島水族館に行った。鰯の群れを見て、娘が食べるまねをしてみなが笑う。少し打ち解ける。「しろくま」を食べ、さつま揚げやきびなごで乾杯した。

桜島を見てみたいと思っていた。それも、向田邦子が見た桜島を。それは天保山にある「サン・ロイヤルホテル」の窓から見える桜島だ。だからその日は、このホテルに予約を取っていた。その桜島は美しかった、と言いたいところだが、残念ながら記憶は断片的だ。母の自分とは違う名字や知らない家族のことがあったからかどうか。あるいは、三十数年の歳月は埋め難いことを改めて感じたからか。

夜。タクシーに乗ってホテルまで戻った。運転手は気さくな方だった。

「もう夏も終わりですねぇ」

その日は奇しくも8月31日。夏休みも終わりだ。そして思う。母との再会はずっとのどに刺さったままの魚の骨のように、ときどき忘れた頃にチクりときていた。それがついに終わりを告げたのだ。

夏休みのうちに、やっと人生の宿題を終えられた。その感慨はゆっくりと胸に染み渡り、心を満たした。夏の終わりが始まっていた。

***

同じく向田邦子の短編エッセー「鹿児島感傷旅行」にはこうある。

帰りたい気持ちと、期待を裏切られるのがこわくてためらう気持ちを、何十年もあたためつづけ、高い崖から飛び降りるような気持ちでたずねた鹿児島は、やはりなつかしいところであった。

東京に帰る日が来た。母と別れたわれわれ家族は、鹿児島空港内に天然温泉の足湯を見つけた。入っていこうか、と言うと娘は大喜び。おもむろにトレーニングパンツを脱ごうとする。われわれ夫婦は大慌てで止め、大笑いする。「ここはほんとのお風呂じゃないよ。足だけ」。場が和む。家族っていいもんだな、と独りごちる。

その足湯の心地よさは一生忘れないだろう。そこに掲げられた看板の「おやっとさぁ」は鹿児島弁で、「お疲れさま」や「ごくろうさま」の意味だという。

それはいまでも夫婦での語りぐさだ。鹿児島の足湯の話をすると、娘はほおを膨らませて「またその話!」と怒る。でも、忘れられないんだよなぁ。あのかわいらしさ。

翌年の母の日、これまでの分とまとめて41本のカーネーションを母に贈った。

***

その後、母の旦那さんは亡くなった。また独りになった母は、娘が住む大阪に移り住むことになった。私が生まれて、まだ母と一つの家族だった大阪に。

母はしばらくして商魂たくましく喫茶店を始めた。それ以来、まず大阪に寄ってから奈良に帰るという帰省を何年か繰り返した。だが、そんな「半分幸せ」な時間は、長くは続かなかった――。



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