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私が看護師を目指すまでの話


音野粒さんのnoteを引用して書いたTwitterへの投稿を、きちんと文章にしておこうと思う。

祖父の死

5歳の頃、大好きだった祖父が亡くなった。
「お葬式には子どもは来られないのよ」と言われ、仏間で「どうして子どもは行っちゃいけないの」「もうおじいちゃんと会えないのはなんで」と泣いた。
その後、祖父だと思っていた人は祖父ではなく、父が慕う人物であったこと、彼がハンセン病の研究者であったことを知った。
(追記:これを書いてから父親に確認したところ、ソーシャルワーカーだったとのこと。1960年代にそんな仕事があったとは)
家には、彼の書いた本があり、意味もわからないままに何度も何度も読んだ覚えがある。

私にとって最初に出会った「死ぬ」という概念は、祖父とも慕った男性の不在だ。

祖母の入退院

共働きの父母にかわり、家にいて私たちきょうだいを育ててくれた祖母は、心臓が悪かった。
私が小学校5年生のある日、祖母が家にいなかった。入院先は大学病院だった。しばらくして看護学生さんがつき「洞結節不全症候群」とタイトルされた数枚の紙をくれたことをよく覚えている。色鉛筆で心臓の絵が描かれていた。
祖母はペースメーカーを埋め込むことになり、手術をし、「おばーちゃん、ロボットになったでえ〜」と言いながら帰宅してきた。
でも、このとき、私のほかの誰も、祖母の病名は覚えてなかったし、看護学生さんにいただいた紙の中身も、ペースメーカーの概念も、わかってなかったと思う。

父親の入院

高校入試を目前にした中学校3年生、1月のある日に父親が倒れた。
父は職場のトイレから「頭が痛い救急車呼んでくれ」と出てきて倒れたそうだ。職場の人により近所の病院へ搬送、たまたま来ていた脳外科のドクターが髄液を採取、くも膜下出血の診断で大学病院に転送、そこへ知らせをうけた(どうやってなのかはもう覚えてない、たぶん家に電話かかってきたとかそんなやつ)家族で行き、母か祖母が説明を受けて、手術になった。
手術がおわり、執刀してくださったドクターが出てきて、ストレッチャーに乗せられた父のそばで
「お嬢さんやね。お父さんの手を握って『お父さん、わかったら握り返して』って言うてみて」
と言った、夜の白い廊下をよく覚えている。
父の手は、ほんのり温かいものの、まるで生命力がなく、「グローブみたいやなあ」と思った。そして、ふんわりと握り返してくれた。出血部位は左脳だから麻痺は右に出るはず、とのことで、左手だった。
開頭減圧が必要で、骨はしばらく外して太腿の皮下におさめて、開頭してあるのも手伝って平衡感覚がおかしくて、病院の手すりを持っても片側にどんどん傾いて歩いてしまうリハビリの日々を経て、骨を戻す手術をし、平衡感覚が戻り、2か月くらいの自宅療養を経て職場復帰、みたいなんだったと思う。
もう30年前だ。よく考えたら、当時の最先端医療だ。あんな田舎で運がよかったとしか言いようがない。外国からわざわざ日本にきて、執刀と勉強をしていた先生は、今どうしておられるだろう。
…のちに父に聞いたところ、出身国のせいで不遇な時代を長く送られたとのこと。それでも、転勤先に追いかけて時折受診に訪れる父を歓迎して「娘さんはお元気ですか」と尋ねて気にかけてくださっていたそうだ。私が看護師になったことを報告したらとても喜んでくださっていたとも聞いて、父と私の人生の岐路にいたのがこの先生で、本当にありがたいご縁だと思う。

外国語と心理学

小学校のとき、どこか外国から視察にきた教員を、なぜか私がエスコートすることになり、何もしゃべれなかったのに、とても褒めてもらったことがある。あの先生はなぜほめてくれたのだろう。わからなくて、外国語を使えるようになりたい、と思った。その先生はなぜか私に箱入りのボールペンをくれた。あとになって、パーカーのかなりいいものだったことを知り、やはり話せたらよかったのに、という思いを強くした。

高校1年生のある日、ぼんやりと「将来何をしようかなあ」と考えた。当時の私は図書室に入り浸りで興味のある本を片っ端から読んでいた。橋本治の「窯変源氏物語」をすべて読破したのも、当時話題になった村上春樹を「高校にこんなえっちな描写の本を置いていいのか」と悩みながら読んだのも、高校時代だ。

そのときに出会ったのが河合隼雄先生の心理学関連の新書だ。面白くて、「心理学」の棚に入っていた本すべてに目を通した。

高校2年生になるときに「文系」と「理系」に分かれた。数学の成績が壊滅的だった私は迷わず文系を選択した。

「大学どこに行く」

将来の夢ではなく、直近に迫った進路選択の話を目にして、心理学にすすみたい、という気持ちが出てきたが、どうやら心理学の道はけわしいらしいことを知った。私には弟がいる。彼はあまり成績もよくなかったため、進学にはおそらくお金が必要になることがわかっていた。両親は夜ごとそんな話をしている。姉の私が、私立大学や就職できそうにない職業を目指しては、弟が思う道に進めずかわいそうかもしれない、と思うようになった。

進路選択

祖母のときには父と母が、父の時には祖母と母が、ドクターの話をきいたはずだけれど、どのくらい理解できていたのだろうか。

子どもの目には、母も、祖母も、理解できない情報量に圧倒されて、ただ「どうしよう」とぐるぐるしているようにしか見えなかった。

祖母が倒れた小学生のときには何もできなかった私が、中学3年生になって父が倒れたときには、やけに冷静に、今の状況をどうにか知りたいと家にあった「知恵蔵」という大きな本をひっくりかえした(当時はインターネットなどなかった)。調べたものの、くも膜下出血なんて数行しか載ってなかった。父親がこれからどうなるかなんて、予想もつかなかった。けれど、その数行を覚えドクターとの面談で「後遺症はありますか」「再発はありますか」と質問した。脳外科のドクターは「よく調べてきたね」と、母と祖母をおいて説明をしてくれた。

その頃の私には、すでに「人間はいつか必ず病む、そして死ぬ」という考えが根付いていたように思う。
かわいがってくれた祖父の死。
家に帰ると明かりひとつついておらず、妙に中途半端な雰囲気の中、いつもよりもうんと早く帰ってきた母親がばたばたと何か準備をしている。
日常生活は唐突に終わるものだ。

そして、共働きの両親と、長く家政婦をした祖母に育てられた私は、「手に職をつけておけば誰かの経済力をあてにせずとも自分の力で生きていける」とぼんやり思っていた。

そのときに「看護師」という職が頭をよぎった。

英語の略語や病名もたくさんある。
病にむきあうにはおそらく心理学的な知識も必要だろう。
私があうことのできなかった、祖父の「死」に、祖父が研究していたものに、近づくこともできそうだ。

…看護師になったら、やりたいこと全部クリアできん??

というわけで

文系にいたので理系の必要科目を全部独学して受験、看護学科へ入学。いろいろあったものの卒業し国家試験うかって看護師になりました。

もういちど、高校生に戻ったとしても、おそらく看護師を目指すと思います。

私はやりたいことを合算して、その先に一生できる仕事をみつけました。やってみたら、三交代が身体に合わずにつらい思いをしましたが、三交代さえしなければ何もつらいことがない仕事だということもわかりました。嫌がる人の多い介護業務がほとんど苦にならないことも、おそらくアドバンテージです。

進路に迷う人には、やりたいことをみつける、という単なる方法ではなくて、やりたいなーと思ったことを合算する、ということも考えてほしいなーなんて思います。

(絶対にできへんなと思うことを避ける方向から探すのもあり)


なんか全然まとまらんくなってしまった。まあいいか。以上です。

投げ銭はいつでも歓迎でございます🙏