久世じゅん|gemini
noteのお題やイベントレポートなど。
後味ほろにが。
思考のメモ。
まろやかな口あたり。
糸の切れた凧が、高い枝の先に引っかかっていた。 木登り名人でも歯が立たないような枝の先っちょで、ゆらりと風に吹かれていた。赤い尻尾がひらひらとはためき、解いたばかりの制服のリボンのようだった。 3月も終わるというのに、凧なんて。一体いつからそこにあるのか。再び空を舞うこともなければ、持ち主の元に帰ることもできないのに、妙に清々しい面持ちで、またそよそよと揺れていた。 * * * 昔よく訪れた野っ原のような公園で、なかなか珍しい光景を見た。 ジャグリングの練習をしてい
諸般の事情により、noteを開くことすらままならない日が続いてるのですが、決して辞めたつもりはないので一応言い訳しときます。 読みたいのもいくつかあるので、また来ます。
三寒四温とはよく言ったもので、冬から春へのバトンタッチは、目に見えるような見えないようなスピードで進んでいく。 冬色の空の下で、春の花が咲く日がある。歩道のユキヤナギが、庭の山吹が、花壇のチューリップが、寒さを我慢するように少し震えながら、景色に暖かな色を添える。 春の日差しの中に、冬の風が吹く日もある。日向を歩けば春で、日陰を歩けば冬。並木道に落ちた縞模様の影を踏んでいると、一歩ずつ、冬と春を交互に行ったり来たりしている気分になる。体が冷えるのが嫌だから、春の方を縫うよ
葉桜を眺めて想うのは、ただひたすらに桜餅。お腹をぐーと鳴らしながら、和菓子職人さんは上手に桜の一瞬を切り取ったんだなぁとしみじみ。私は関東人ですが道明寺派です。
私は無学なものだから、最初はご多分に洩れず、令和の「令」の字から「法令」「号令」「命令」あたりを連想した。 そして昭和生まれなので、「和」の再来が思ったより早いことに驚き喜びつつ、「和を以て貴しと為す」なんてフレーズを久々に思い出したりもした。 そんなとりとめのないイメージは、安倍首相の談話によって、的外れだと思い知った。 「一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる」という言葉には、今後より一層、多様性を推進する意図が込められてい
色々すっかり疲れ果ててしまったので、椅子の上に体育座りをしてスルメの足をガジガジとかじっています。今日はそんな日。そんな日もあるよね。
まー、と呼びかける愛くるしい声。 そんな大きさで一体何が掴めるのか、と思ってしまうほど小さな小さな手。そのぷくぷくとしたパーツを眺めていると、なぜだかバルーンアートのプードルを思い出す。 やわらかな足の裏は、まだ大地をよく知らない。トタ、トタ、と一歩ずつ開拓でもするかのように、新しい何かを探して踏み出していく。 彼の感情はくるくると変わる。涙を流さずに泣き声をあげたかと思えば、大げさに唇を突き出し、歪めてみせる。次の瞬間には愛嬌たっぷりに目尻を下げて、まだ言葉ともつかな
世の中はお役立ちノウハウで溢れている。汚れの落とし方、お金の増やし方、ロケットの作り方もあれば、生き方や死に方まで。今や欲しいノウハウを探すよりも、誰も手をつけていないノウハウのネタを探す方が、ずっと大変なんじゃないだろうか。 たしかに、それらの情報に助けられることは多い。それに自分だって、どこかで自己流のノウハウを垂れ流していたりもする。 でも、人生の重要な問題には答えがない場合も多い。得る、失う。進む、退く。出会う、別れる。そこに唯一絶対の解はない。だから万人共通の有
思いもかけないタイミングで、電球がぱちりと切れた。 仏壇の豆電球である。風情も何もない。 一日にそう長時間点けるものではないから、「そろそろ切れるかも」なんて心の準備はできていなくて、すっかり油断していた。 あっけないものだ。 最後の力を振り絞るように一瞬光って、それっきり。 当然のような存在も、いつかは、ふっと消えてなくなる。 言わずもがな。文章に起こすと陳腐なほど解りきったことだ。 それなのに。“ぱちり”が起こるまで忘れていたのだ。 大事なものが目の前で消えてし
イベントと名の付くものには滅多に出向かない私ですが、ふと心惹かれるものがあり、note公式トークイベントに参加してきました。 自分のやりたいこととやりたくないことを見極め、生き方や居場所をどうつくってきたか イベント概要のこの部分に、ピンと来るものがあったのです。 “自然体”でした気取りのないリラックスしたムードで登場された、ライターの佐久間裕美子さん。 日本の大学生活がしっくりこなくて、ひとりゲーム部(!)状態だった日々を経て、一念発起してアメリカ留学。 そんな
たくさんのものを諦めてきた人生だった。 学びたかったこと、やりたい仕事、ふつうの人生。 そして、決して手の届かない場所へ行ってしまった人々。 いつの間にか、あきらめの上級者になっていた。 ──仕方ない。自分にはどうしようもなかった。ベストは尽くした。 そんな言葉で自分を慰めるのが、とても上手になっていた。 去る者を追ったりもしない。 喪失からの立ち直りにも、すっかり慣れた。 心の一部をそこに置き去りにしたまま、何もなかったようなフリをして、また日常に戻っていく。 時
宵の気配をたたえながらも、思いのほか強く、金色に輝く太陽。 地平線のオレンジを捕まえたくて、思わずスマホを掲げる。 レンズ越しの夕日は、なぜかその顔を少し曇らせたように見えた。 夕暮れと、その後に訪れる薄明の時間が好きだ。 宵闇に少しずつ溶けていく光。その儚さと曖昧さは、在るがままの私を包み込んでくれる。羽ばたけず、落ちることもできない私を。
おそらく、私はクリエイターではない。 創作意欲みたいなものは昔から特になかった。 文章を書くのは嫌いではなかったけれど、怠け者だから自主的には書かなかった。学校の作文の類は、いつも小手先のテクニックで乗り切ってきた。 とはいえ、文章に触れるのはずっと好きだったんだと思う。 ささやかでニッチ過ぎる職務ながらも、仕事として書き手に携わったこともある。 創る人の後方支援をするのが向いていると思っていたし、今もまあまあそう思う。 だけど、半年ほど前にほんの思いつきで、ここではない
自分を晒け出し、 少し背伸びをし、 血を流し、 傷を癒す行為。 創る過程でどれほどもがき苦しむのかわかっていても、それをやめられない人間がいる。 生まれながらの表現者。 他人に評価される表現者がいて、評価されない表現者がいる。 両者には、それぞれの苦悩がある。 自分の評価と他人の評価に隔たりがあるほど、その苦悩は大きくなるのかもしれない。 自分が思うよりも評価され、それが独り歩きするプレッシャー。 自分が思うよりも評価されない、憤り。劣等感。 心の安寧を得た