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「純文学」を考えてみた(注・生意気だったらすみません)

浦島太郎のぼやき

就職活動にせよ、まずは相手のことを知り、戦略を練らねばならない。
そのためにも、公募もまずはその文学賞の基本知識を得るところから、と。いろいろ見ています。

……まじめか?。w。

でも、何も知らないで応募するより、基本情報くらい知っておいた方がいいって、大体のひとが書いているし、まずステップとして踏んでおこう、と。

どの公募に応募するのが、自分にとって最善なのかわからないので、いろいろ調べて。そのたびに、審査員の顔や作家名をみておじけづき、受賞作の評判をみておじけづき。

最終的におもったのは、わたしは明治から平成以前(おおよその時代区分)の作家が好きで、そればかり読むから、知らぬ間に流行おくれの感性になっていたかもしれないってこと。

とてもじゃないけど、今の文芸雑誌に載ってるような、若手の現代文学の人たちの文章みたいに書けないなって思うんです。

このごろ「浦島太郎みたいな気分」って、何度も思う。

私の中で、自分が実際に読んでいる作家の歴史は、新しくても、綿矢りさ、金原ひとみ、吉田修一あたりで止まっている。もう、この人たちすらベテランとして扱われているのに。と、考えると、わたしの時間軸がおかしいんだろう。

おそらく文学研究の師匠の影響が大きい。「生きてる作家は扱うな。死んだ作家を扱え」と。それが基準の世界でずっとやってきたから、読んでいるものも無意識にそんな感じだったのかもしれない。

たまに文芸雑誌を読むと、どれもシリアスで、現代アートみたいに尖ってて、共感できないことに気づいた。文章の真似は努力でできるんじゃないかって思ってたけど、真似て書く気にもなれないような、私にとってはまったく肌合いがちがう感じ。すごく頭は賢くて小難しかったり、尖りすぎてよくわからなかったり、文章として共感できないというか。文章フェチなわたしの場合、偏愛、趣味嗜好がどうしても出てしまう。

失礼かもしれないけれども、正直読んでいていて面白く感じられない。わたしの好みがおかしんだろうって、思っていた。私の好みが偏っているから、その良さが分からないだけなのだ。私は左脳的だから、評論や批評、対談のほうがまだ面白いと思えるんだろうって。(私が単に好みの若手作家に出会っていないだけかもしれないが)。

でも、ふと考えてみたら、文芸雑誌に載るからには、一定の基準をこえてデビューした人たちで、編集者や審査員の小説家が「これが純文学」って認めた人たちなんだろう。「今の純文学」って、これなんだよってこと。

そう思ったら、「えー?!」ってあらためて思った。
やばいよ。
私は完全、浦島かもしれん。もはや筆名を浦島にすべきか。

「純文学」とは、なんぞや。


でも、ならば、あらためて「純文学」って、なんだろうって思った。
単に好みの問題ではなくて、あれが「今の純文学」ならば、わたしはあきらかにずれてきてしまっている。

わたしが感覚でとらえて、文学好きな人たちとも共有してきた「純文学」というものがあった。でも、それも思い込みで、すでに旧くなっていて、時代錯誤になってしまってるのかもしれない。

そう思ったら、自己解体が起きたのか、あらゆるものに疑いの念が生じ始めた。

そもそも「純文学」と「エンタメ小説」との境界線や区別も、誰が決めてるんだろう。審査員の人の基準、編集者の基準、やはり商業的にそれが本になって売れるかどうかの基準を満たしているかどうか。いろんな基準があるんだろう。

どうして、「純文学」が上で「エンタメ小説」が下だと思ってきたんだろう、無意識に(わたしはそれを恥じる)。

どうして、「小説を書けること」が上で「評論や研究をすること」が下だと思ってきたんだろう、無意識に(わたしはそれを恥じる)。

どうして、わたしは小説でなければだめって思ってしまうんだろう。それも思い込みじゃないのか?(これも個人的には恥ずかしかった)。

いろんなことが「すべて思い込みじゃないのか?」という思いがあふれた。

自分の「ブンガク」をやるしかない

そして最終的に思ったこと。

ならば、自分が考える「純文学」をやってみるしかないのだ。

ごちゃごちゃ言うてないで、まずどんなものか作って見せるしかない。

思いっきり、自分が考える「文学(ブンガク)」をやってみて、それをぶつけてみて、ダメだったらそれは「いま・みんなが思っている純文学」ではないし、別のジャンルに応募すべきなんだろう。わたしがそこに追いつけなかったということ。

わたしが考える「純文学」で、好きだな、こういうのが書きたいなと思う作家は、山田詠美、大庭みな子、川上弘美、江国香織。吉本ばなな。特に山田詠美と大庭みな子からの影響は大きい。それに村上春樹。

どの作品も、感動できる。ハッピーエンドだから感動するとかいう単純な理由ではない。バッドエンドでもすごいなあと心動かされるものが、どこかに必ずある。

別に、いつもシリアスだったり、社会風刺だったり、政治思想を取り込んだり、社会問題を取り込んでいるわけではない。話題性ばかり狙ってもいない。

世界観があって、人間を描いている。人間の感情の機微を丁寧に描いている。ようは、なにか「人間」を感じる。人間のなまなましさを感じられる。

宇野千代や、山本周五郎のような人生の集大成型作家もあり、谷崎潤一郎のような自己陶酔の世界もある。そこに「ブンガク」の中でしか表現できない思想や生き方、哲学がこめられている。

山本周五郎賞を調べてみたら、純文学作家もエンタメ作家もどちらも受賞していて、物語性の高い作品ならば、ジャンルは関係ないんだってわかった。それもすてきだなあって改めて思った。

自分の考える「ブンガク」をとにかく爆発させて、ぶつけるしかない。
全力でつくりあげて、そこに全熱量をこめる。
ふと、岡本太郎が思い浮かんだ。
とにかくやるのだ。
内側から解放させて、命そのものになるのだ。
それで最初で最後だって、いいではないか。

でも、それも苦しいのではなく、わくわくエキサイティングで、やる。
もう苦行の時代ではない。
これまでもう十分努力努力でやってきたことが別にあるから、
そういう意味での苦行はしたくないのです。
好きだから、やる。ただ、それだけ。
もしやってみて、ちがうなって思ったら、進路変更も軽やかにしていいと、自分にあらかじめ許可しておくことにする。


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