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冷え性の僕は雪の王。アナがいないから缶コーヒーで指を温めて夢を追う。

 すっかり寒くなってきた今日この頃、皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

 僕は元気です。毎日すごく眠たいし、鼻水は出てるし、背中が凝り固まって痛いし、右膝もたまに痛むけど元気です。おじいちゃんかな?
 ちょっと元気という言葉の定義がわからなくなってきたけど、元気なんだと思います。


 そんな僕は、ようやく新しい長編小説の執筆に入って、毎晩パソコンを相手に書いているところです。
 今年中に初稿を完成させて、年明けから推敲を重ねて3月末の公募に出したい。
 どうしても自分だけの自由な時間を取れるのが深夜しかないため、コーヒーを飲んで無理矢理でも頭を働かせて書いています。

 なにを隠そう、僕はもともと夜型人間でして、フクロウもビックリするぐらいの夜行性なんです。
 しかし、サラリーマンの悲しいところで朝は決まった時間に起きなくてはいけないし、年齢による体力低下も相まって、最近は布団の誘惑に抗うのがなかなか大変です。
 ひとりぼっちの布団だからなんとか抗えているものの、これが布団の中に美女がいたら確実に負けていることでしょう。男ってバカよね。小学生の頃から何度となく女子に言われた言葉を思い出しました。


 その執筆のお供のコーヒーは毎日、コンビニに買いに行っています。
 インスタントコーヒーでも、本格的に豆を挽いてドリップさせてもいいんですけど、なんだかコンビニの缶コーヒーになっています。
 コンビニまでの往復10分の夜の散歩がルーティーンになっていて、気持ちの面で執筆の準備にちょうどいいのかもしれません。

 もう夜にはかなり気温が下がって冷え込むので、ホット飲料のコーナーからブラックコーヒーの缶を一本だけとってレジに行きます。
 単価の安い迷惑な客であることは承知しているので、出来るだけセルフレジを使って店員さんのお手間はとらせません。僕がとるのは缶コーヒーと女の子のハートだけですから。


 それで温かい、時には熱いくらいの缶を握って手指を温めます。僕は冷え性なので、この指がじんわりと温められて柔らかくふやけそうになる感覚が大好きなんです。

 そう、僕は冷え性なんです。前置きが長くなりましたが、今日はこれを伝えたかっただけなんです。
 自分でもビックリするくらいに手足が冷たくて、たまに感覚も無くなって、不意に顔なんかに手が触れた瞬間なんか死体の手かと驚くくらいに冷たくなります。短く悲鳴を漏らすこともあります。ちなみにおしっこは漏らしてないので大丈夫です。
 まるで氷で出来た彫刻みたいに冷たい指。アナ雪のエルサみたいに魔法が使えたらいいのに。


 この間の金曜日にテレビで放送されていて、僕は初めてアナ雪を観ました。

 ネタバレをするのも嫌だし、映画に詳しいわけでもないので詳細な感想や考察は書かないけど、僕はエルサにすごく共感しました。
 別に冷え性だからというわけではなくて。さらに言えば、金髪美女に憧れがあるからでもないし、小学生の頃に松たか子に惚れた時期があるからでもありません。

 自分自身の不器用さにより大切な人を傷つけてしまうことを恐れて、人を避けるように閉じこもる部分に共感したのです。
 僕も不器用な人間です。高倉健さんくらい不器用です。そして、その不器用さで他人を傷つけないように本当の自分を殺して生きてきたような気がします。誰でも好き勝手に素のままでは生きられないから、多かれ少なかれ同じような経験があると思うけど。

 このアナ雪という映画のテーマは、姉妹愛・自己犠牲的な真実の愛・女性の強さ・多様性の受容だと思います。
 アナは強い女性で、彼女の自己犠牲的行動が真実の愛を彼女にもたらすと同時に、エルサの抱える問題解決にも繋がって多様性社会の実現を叶える。そんな物語だと僕は解釈しました。


 人は誰でもマイノリティです。それはまったく自分と同じ人間がいない以上、その差異に着目すれば個々人はみんな一人ぼっちでマイノリティになり得るから。どの側面を切り取って見るかによって、マジョリティとマイノリティは変わりますからね。
 昔から多くの文学で言われているように、人間の本質は孤独なんだと思う。

 それを慰め合うように似たところを探してマジョリティが形成され、マイノリティの中のマジョリティが出来上がって、結局は細分化された差別が残る。

 だから最近の多様性社会って、言葉遊びにしか感じないところがある。人がそれぞれ一人一人違うことを無視して、単純に細分化しているだけのような。細分化しているだけで分類をやめない以上、差別はなくならい気がします。

 大切なのは、ラベリングによって人々を分類することではなくて、一人一人が違う人間であり、他者は自分とは違う人間であるということを受け入れることなのかもしれない。

 もちろんマイノリティを受容するはずの多様性社会はみんなにとって素晴らしいことだとは思います。本当の意味で実現できれば、の話ですが。

 もちろん僕もマイノリティな側面を持っています。子供の頃に女の子みたいな見た目を揶揄われて虐められたり、出身地じゃない土地で働いているので社内での学閥や出身地閥に属さず不利益を被ったり、人とは違う家族構成の問題を他人と共有できず苦痛を理解してもらえなかったり。いろいろあります。

 でも、そういう側面があるのは当然の話だし、別に自分の痛みが特別な痛みだとは思わない。
 自分の痛みを特別視した瞬間に、他人の痛みを軽いものと見下して、差別する側に加担することになってしまうから。誰しもが経験する生きづらさの問題なんだと思っています。

 正直、この多様性の問題については自分の中でもちゃんと整理できていないので、これからもっと深く考えていこうとは思っていますけど。
 ずっと生きづらさを感じながら生きてきて、小説でもそれをテーマにして書いているので多様性についても考えを深めていこうと思います。


 僕の一つの側面として、30歳を過ぎてなお、夢を追いかけていることも社会全体で見ればマイノリティだと思っています。
 現実を見ろよ、地に足をつけて生きろ、もう大人ななんだから。
 そんな台詞を、時に同情や嘲りの視線を持って言われることがある。それはやっぱり大部分の大人は自分の能力や現状と社会生活の折り合いをつけて、生きているということなのだと思います。

 だから、大人になっても夢を追いかけている僕はマイノリティです。
 でも生き方は変えられないし、人と違う生き方は大変だとしても、自分に正直にありのままの自分で生きるほうが良いと僕は思っています。
 これまでの人生みたいに、本当の自分を殺して生きるのはもう嫌だな、と。

 アナ雪のレット・イット・ゴーがすごく流行ったのもなんだか納得したし、単純に素晴らしい曲だと思いました。
 そして、僕が手に入れたいのは真実の愛ではなく夢の実現だけれども、アナみたいに強く勇気を持って行動しないと手に入らないんだろうな、と思いました。


 だから今日も僕は小説を書きます。ホットコーヒーで指先を温めながら。ありのままの自分でいるために。

 それでは、また。

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