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【エッセイ】スーパードライを飲むわたし、クール・ブーストを吸うあなた

 こんにちは、じゅんちちです。ここでみなさんに一つ質問です。みなさんは昔の知り合いのSNSアカウントを探してみたり、暇つぶしにグーグル先生で検索したりしたことはありますか?

 今は疎遠になってしまったけど昔は親しくしていた友人、胸に秘めたまま終わりを迎えた片思いの相手、付き合っていた恋人、お世話になった先生や先輩。そういう人のことを不意に思い出して、「あの人は今どうしているのだろう?」って気になってネットの海で探してしまう。そういう経験って、みなさんにはありますか?

 わたしは、ないんです。ネットの海に探しに出かけたこともなければ、そもそも「あの人は今……」って気になったことすらないんです。
 わたしはもともと人間関係に対してドライなところがあります。別に冷めてるわけじゃないんです。ただドライなだけなんです。ちなみにビールではアサヒスーパードライが好きです。柿ピーの柿の種だけを先に食べて、最後に残ったピーナッツを贅沢に3個くらい口に放り込んで咀嚼し、スーパードライで流し込む。最高ですよね。

 そんなドライな私ですから、離れていく人を引き止めることはしないし、未練も残りません。新しいコミュニティに移って離れていく友人、だんだんと態度も恋心も冷めてしまったような恋人、突然いなくなって音信不通になる知人。離れてしまえば過去の人であり、今のわたしとは縁のない人たちになります。極端なことを言えば、どこかで元気に生きていようが、とっくの昔に亡くなっていようがわたしには関係のない存在。

 人と人との縁ってそういうものだと思っています。それぞれの歩く道が交差して出会い、たまに合流して一緒に進み、また別れ道になって離れていく。たくさんの人がわたしと出会い、ある程度の期間を一緒に歩き、多くの人がわたしから離れていきました。だから人との別れも、そういう運命であり、仕方のないことだったのだと思います。

 もちろん親しくしている間は大切に思い、その関係性を大切にしていますし、離れるときには哀しくて寂しくて泣いたりもします。それでも離れてしまうのは仕方のないことで、だからこそわたしは「さようなら」を大事にしたい。

 離れてしまえば過去の人とは言っても、その人との出会いや共に過ごした日々が無価値で無意味だとは思いません。なかったことにはできないし、したくない。
 その人と過ごした日々で、大なり小なりわたしへの影響があるはずだし、そこから自分の成長とか変化に繋がっていると思います。
 その影響とかというものは、わたしの中にいつまでも残り続ける。その過去が現在の私を形作っている。それが歴史なんだと思います。

 それで冒頭の質問に戻るわけですけど、皆さんは過去の知り合いの近況をネットやSNSで調べたことはありますか?
 わたし自身はしなくても、よく聞く話だからきっとそれなりに多くの人が経験しているのではなかろうかと想像してます。
 わたしが気になるのは、その心の持ち様なのです。動機はなにか。未練か、怨みか、妬みか、懐かしさか、陰ながらの応援か、ゴシップ的な好奇心か。
 人やケースによるとは思うけど、そこを知りたい。小説にしてみたい。

 わたしがなぜに今日はこんな話をしているのかと申しますと、SNSってその人の歴史だな、って思ったからです。
 わたしは過去の知人のことは調べないけれど、例えばツイッターとかのフォロワーさんで、それまで頻繁に投稿されていたのに1年以上も投稿がないアカウントを見るのは好きです。遡って投稿を読み続けます。それはよく知らない他人のことを盗み見ているような感じがします。
 そして、その過去の投稿を見ていると、その人が確かに生きていたのだという生活の歴史を感じます。もちろん都合よく切り貼りされ、脚色され、捏造だらけの歴史だとは思うけれど。でも歴史ってそういうものです。

 でも、それらの投稿も一定の年月が経てばネットの海から消えてしまう。ネットアーカイブで魚拓を取らない限り。
 わたしはそれが哀しいし寂しくなります。

 わたしは過去の知人の近況をSNSで調べないし、むしろ調べられたくもないのでずっとSNSを敬遠していました。
 30歳を過ぎて始めたツイッターも身バレしないようにしているし、リアルの知り合いとは絶対につながらないようにしています。
 それでも過去の投稿が自分の歴史となるのなら、それは面白いし残したい、と思うようになりました。

 人との縁がわたしを作り、それが歴史になっていく。そして、その歴史がSNSに残り、わたしは他人のそれを盗み見る。楽しい世界。
 今日はそんなお話でした。それでは、また。

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