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『記憶と人間の方舟として』鷲田清一さんと赤坂憲雄さんの対談を聞いて考えたこと。

2020年2月14日、福島県立博物館で開催されたライフミュージアムネットワークのトークイベントに参加しました。講師は、せんだいメディアテークの館長で哲学者の鷲田清一さんと、福島県立博物館の館長で民俗学者の赤坂憲雄さん。

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(以下のテキストはすべて手書きメモから書き起こしているので、誤記や誤字があると思います。また、正確に一言一句は異なっている場合もあります。どうかご容赦の上、参考までにご笑覧ください。)

広場の条件、広場としてのミュージアム

私が対談を貫くキーワードだと思ったのは、「広場」という言葉でした。しきりに赤坂館長が作りたい、目指したいと言っていた「広場」。厳密な定義は聞きませんでしたが、市民生活と深く結びついた、公共性のある、開かれた場所のことを指して言っていたと思います。百科事典の定義(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))にあるような。

まず赤坂館長が言います。せんだいメディアテークと福島県立博物館、東日本大震災の被災地にある2つの公共施設、その2つの館はどう違うのか。なぜ福島県立博物館はせんだいメディアテークを参考にしてきたのか。

赤坂)
ーーーここ数年、手探りで子育て中のお母さんや、そういった方に足を運んでもらうように工夫してきました。これまでの県立博物館は、無言で、ある種権威的に拒んで来たんです、そのような人たちを。せんだいメディアテークとは対極的。もちろん、建てられた時代が違うので、仕方のない面もあります。その証拠に、県立博物館には展示室のみで、市民が使うような部屋はない。福島県立博物館が権威的であったことは否めない。だから、博物館は「広場」になるべきだと思ってきた
鷲田)
ーーー今日福島県立博物館を見て思ったこと。それはモノ、モノなんですよね、博物館というのは。せんだいメディアテークは正反対で、収蔵物はない。ましてや壁もない。ほとんど壁がなくて、市民が使えるスペースも、お互いが何をやっているのかわかるし、事務局の仕事も丸見えです。トイレには壁はありますが(笑)

植民地の珍しいものを収集する場所というルーツ(cf.大英博物館)を持つ博物館と、メディアテークとを対比して、赤坂館長は「広場」を目指すべきと言います。「広場」とはなんでしょう。もう少しお二人の話に耳を傾けてみることにします。

鷲田)
しかし、建物が違っていても、似ていることがあります。それは、今は価値を決められないけども、これは保存しておくんだという。せんだいメディアテークでは、映像や体験、モノではなく体験の記憶を残してきた。(それは県立博物館も一緒で)お互いに記憶を残そうとしてきたんです。
てつがくカフェでは、被災というテーマで早くから市民が参加して、自分の被災のことを話してくれました。参加してくれました。そこで驚いたのが、アンケートであった回答のひとつ。どうして今回参加されたんですか、という質問に対して、「ほかにはこんな場所ないから」と。てつがくカフェは、自分の体験を具体的に話すことからはじまります。私たちは市民という言葉を普通に使うけど、性別や立場といった属性を外して、いきなり話すことってほとんどない
赤坂)
県立博物館は、メディアテークがやっていることを参考にしながらいろんな人たちの小さな声が集まるようにやってきた。博物館が、大きな災害の前に何ができるのか、答えはなかったんです。誰も知らなかった。誰もが初めてのことだったと思います。学芸員が、それぞれの専門性でやれることをやる。他の県の博物館から、総合博物館としての最大限に使って活動されてますね、と評価されました。自然・歴史・民族・美術…それぞれ専門性を議論する中で、集めるものを決めるのです。美術の学芸員が、地域の中に入って、美術が人と人との間に入って仲立ちをするようなことをしてきた。
(中略)その中で、いいたてミュージアムというものをつくった。何気ない、飯舘村の落ち葉やチラシに、記憶が宿っていたりする。見えないもの(放射能とその被害)を、どう残すのか、初めての問いだったんです。

鷲田館長の言葉「私たちは市民という言葉を普通に使うけど、性別や立場といった属性を外して、いきなり話すことってほとんどない。」という言葉から、「広場」はそういった属性からは離れた空間なのではないかという想像ができます。従来の県立博物館が抱えていた権威性。言い換えれば、教えてあげる、残してあげる、というような上から下へ、と言う関係性ではなく、対等な空間と場所。カタチのイメージで言うと、三角形のピラミッドではなく、まるい円の形をした空間の広がり。

赤坂館長が、鷲田館長の言葉を受けて言う「いろんな人たちの小さな声が集まるようにやってきた。」では、さらにもう一歩踏み込んでいるように思います。大きな声ーーー権力者や、それを支える歴史家や蒐集家ーーーではなく、小さな声が集まるのが「広場」なのだと意思表示をしているように聞こえました。

そして、広大な福島県(面積は一都三県合わせたより広い、私は今回の白河→会津若松出張も泊まりがけで行っています)で、「広場」は物理的な博物館の建物でだけは成り立たないのです。目に見えない小さな声と、目に見えない被害を、目に見えるカタチにして、どの町でも触れられるようにしたのが、『いいたてミュージアム』でした。全村避難を強いられた飯舘村のモノたち(お酒や、カレンダー、ハンカチに、落ち葉、チラシ、ガラス製のハエトリ...)を、県内外でミュージアムとして展示したプロジェクトです。

2017白河巡回展(表)

運のいいことにご縁をいただいて、白河市のコミュニティ・カフェ EMANONでは、この『いいたてミュージアム』の準備を当時の高校生たちと一緒に行うことができました。展示の準備をしたり、

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ハンドアウトをデザインしたりしました。

ハンドアウト_いいたてミュージアム300

ハンドアウト_いいたてミュージアム3002

目に見えない小さな声と、目に見えない被害を、目に見えるカタチにして、どの町でも触れられるように。目に見えるようにする力が、「美術」や「展示」にはあることを、この『いいたてミュージアム』が教えてくれるような気がします。まるく広がる空間の中心には、美術・アートがあって、お互いの立場をほぐして、小さな声を出せるようになってくる。お互いの小さな声に耳を傾けられるようになってくる。そんな空間が、広場だと思いました。

アートの条件、そして方舟としてのミュージアム

後半の対談は、震災とアートという話題に移っていきます。

赤坂)
若い世代が、根元のところで揺さぶられて、自分の生き方を(東北で)探して始めている姿を見ている。無数の傷跡のような風景の中で、そこで、自分が何を感じるのか、見るのか。今の30代の女性たちを見ていて、明らかに変わったなと感じることが多い。ロストジェネレーションと言われるような世代で、本当に大企業のような大きな組織を見切っていて。
鷲田)
いまは目標設定して働く社会。5年後にGDPが何パーセント、売り上げが何パーセント。companyって、本来は共にメシを喰うって意味。なのに業績が悪くなれば下から順にリストラする。ひどい。第一次産業がきちんと動いているときには、こんなこと、目標設定してすべて決める、ってことはなかった。自然は予測できないから。子育てだって、本来予測できないから、目標設定はしない。(そんな社会の中で)目標がなくても、はじめられる、情熱を持って取り組めるのがアートだと思う。

目標を決めて、目標に向けて働く。

それは、動き出す段階で、あらかじめ価値判断をしてから行動するようなものなのだと思いました。これくらいのコストパフォーマンスだから投資しよう、これくらいの伸び率が予測されるので撤退しよう。終わりのない確率論。

しかし、およそもっとも安定しているであろう組織が、もっとも信頼に足らないことを若い世代は諦観していると思います。大きな企業のデタラメさを、2010年代は見せつけられてきました(事故を起こしてしまった東京電力や、若い社員を過労死させてしまう電通や、予算を守れないオリンピックの実行委員会を思って書いています。)。

現在の段階で、将来が予測でき、価値判断ができるものだけがこの世界にあると考えることは、いささか過信だと思います。いまは価値があるかはわからないけれど、将来価値が生まれるかもしれない。価値観は変わるかもしれない。いまは価値の判断ができないから、その価値判断を保留して、遅延させる。それができるのが、アートだと。

福島県立博物館が現在行なっている展示、『震災遺産を考える ―それぞれの9年―』でも、そんなものたちがたくさん並んでいます。

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避難所になった浪江中学校のパイプ椅子とストーブ、牛舎に立っていた(逃げられなかった牛が齧った)木の柱、2011年から放置されていた新聞の自販機、楢葉町の仮設商店街の看板、小学校の黒板に書かれた担任の先生からのメッセージ。そしてそのモノたちにまつわる人々の語り。

鷲田館長の言葉を借りて言えば「それは、今は価値を決められないけども、これは保存しておくんだ」という個人の原動力になるのがアートであり、全体としてそれを守り伝えるのが博物館の営みということになります。

だから、このトークイベントのタイトルが「記憶と人間の方舟として」と設定されているのは、いますぐに役にたつかどうかはわからない。今を生きる我々にはわからないけど、次の世代にこの時代の経験と記憶とを残していくんだという決意表明なのかな、と思いました。

赤坂)
柳田國雄の『都市と農村』予言のようにきいてくる。昔は、未亡人なら未亡人を守る制度が村落にはあった。福祉という近代制度になったことで、国に頭を下げて施してもらわなければいけなくなってしまったのが不幸だなと。日本海のとある漁村であった話が印象的。未亡人や老人が、漁港に集まってくる。漁師は、とった魚をわざと溢す。彼らは、落とされた魚を平気な顔で拾っていく。
見えないものをたくわえ、収集し、見えないものが語りかけてくれる。そういう広場に、博物館がなればいい。そうしたら、Museumは、記憶と人間の方舟として残っていくのかな。
鷲田)
広場って言葉、いいですね。どれだけ、いろんな立場の人を包み込めるか、どれだけ、違うタイプの人を包み込めるか。liberalの意味はもともと「気前がいい」。次に「寛大」、「寛容」ときて、最後に「自由」という意味が出てくる。広場は、本当は気前のいいものにしないと。魚を知らんふりして配るような。

カフェは、広場になっている? みんなの意見を聞かせてください。

さて、カフェを運営している未来の準備室としては、この問いが残ります。

Q.多様な小さな声が集まる場として、カフェは機能しているだろうか?
Q.性別や立場といった属性を外して、市民として振る舞えるカフェになっているだろうか?
Q.今すぐに役にたつ/立たないという価値判断ではなく、次の世代に価値判断を委ねることができているだろうか?

コミュニティ・カフェ EMANONのプロジェクトがはじまったのは2015年。事業として丸5年度が経過しようとしています。

震災をきっかけに福島・白河に関わるようになって、手探りでここまできました。

これから、次の5年、どのような場所としてこのカフェを開いていくのか。2020年度春、約1ヶ月〜2ヶ月のリフレッシュ期間をいただいて、仕組みを組み直す予定です。

こんな場所にしたいという高校生や大学生、学生を支える先生や保護者の声、ぜひ聞かせてください。いつでも、カフェでお待ちしております。

未来の準備室 青砥和希

(そういえば、県立博物館では会津が産んだ地理学者、山口弥一郎先生の展示もしていました。著作『津波と村』で有名です。当時の山口先生が担当していた高校生たちの郷土研究部の活動、質が本当に高くて敬服。)

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