瞑想鉄拳 2005’
瞑想鉄拳
天人純 2005年ブログより
瞑想鉄拳: 倍音民族楽器の「MOJORISING」横山と、舞踏家であり大阪「天人」のオーナーでもあるJUNによるユニット 。
「激しい動き、激しいリズム、静かな動き、静かなリズム、という単純な構造、構成が多くはないかい?」「踊りのバックの演奏」とか「観客と演者」というような対比的な構図さえも、とりはらいたい・・・
<瞑想鉄拳誕生秘話>
チャーリーマクマーン(ディジュリボーン、フェイスベース考案者)が、先月天人に泊まりに来ていた時、僕は彼のライブに乱入したのだが、乱入計画にさそってくれたコーディネーターの横山氏(モジョライジング代表)も天人で一緒だった。
久し振りにゆっくり2人で話をしていた時の事。
舞台でのコンセプトの話になった。
「今何がおもしろいだろう?」
「何が足りない。コノの時代…」
色んな話をしていた時、僕は「激しい動き、激しいリズム。静かな動き、静かなリズムという単純な構造、構成が多くはないかい?」と話した。
「静かな闘志や激しい静寂があってもいいではないか…それがあり得るのは、その表現が、音楽やダンス単体より、合わさってこそ可能性が広がるのでは?」
ダンサーが演奏のバックで踊るとか、踊りのために演奏があるといった形式は多い。
どちらかがメインディシュでどちらががサブ…
その地平を取り除きたい。
それだけではなく観客やステージと客席の地平すら取り払いたい…。
ライブ活動の多くは発信側と受け手がはっきり対抗した形をとっている。
つまり発信する側と受ける側に役割分担ができあがっている。
そこじゃないところから勝負できないだろうか?
なぜなら静寂にしろ、爆発寸前の状態にしろそのエネルギーは、場全体のエネルギーから感じるものだから…。
演奏者やダンサーが単体で発信できるものには、創意工夫の歴史がある分、もう出尽くした感がある。
後は規模の大きさだけで真新しさを醸し出すしかない。
だが、これは設備投資の問題で資金力の話しなるから僕らが大資本には叶わない。
一体となった合一(ユニティ)の現場とはどんなものがあるだろう…
祭りの高揚感や、暴動の現場などがそれにあたるだろうが、これらは先導者はいるものの、発信側受信側の区別を目的としておらず、全てが参加者となるわかりやすい例だ。
このようなある意味原始的、場の高揚感が既にあるにもかかわらず、わざわざアーティストが劇場でやる意味を考えた。
現代では体験しがたいエネルギーは「静寂の中の爆発、激動のなかでの静寂」などの虚の空間での感情だろうか…
祭りや暴動は、エネルギーは大きいが構造としては、かなり単純なもの。
この精妙な芸術は、やはり、観客のエネルギーを感じ、その場の磁場を取り入れることができる即興でなくてはならない。
(僕らの場合の意味である。作りこまれた作品でも可能ではあるだろうが、表現の可能性という意味で即興のほうが思いも寄らない事が起こる可能性大きく、手段として向いている)
そしてその実験のユニットを2人で作る事にした。
2人の中ではこのコンセプトを表現した偉大な芸術家が浮かんでいた。
「ブルースリー」このマーシャルアーティストの残した作品は数少ない。
僕らが思う彼の唯一無二な点はモビリティの豊かさより、単純な技を極限まで深め、磨く事での、クオリティの豊かさである。彼が突き詰めた、この怒りから来る静けさ、静けさの中の淋しさ、淋しさの中の爆発寸前の緊迫感などの表現は60年、70年代には早すぎた天才だったと思う。
当時はその意味をわからず、なんだかわからないけど世界が熱狂したという状態だった。その後、世界に一大カンフーブームがやってくるのだが、それはこの彼の表現力による戦いの世界の一面を一般にわかりやすく翻訳した事にあると僕は分析している。
2人とも彼の事を思い浮かべながら話をしていたのは面白いが、こうして2人きりのユニット「瞑想鉄拳」が誕生したのだ。
ついに今日は瞑想鉄拳初舞台、場所は下北沢のネバーネバーランド。
移転して大きくなった店内は前の店の雰囲気を充分伝えていて、オンボロで汚い、とても新装オープンとは思えないだろう(笑)
ちゃんと扇風機もホコリだらけで動いて安心した。
亡くなられた御主人と数十年間、積み重ねてきた歴史と思い出をできるだけそのまま持ってきたいという、かおりさんの心が感じられた。
瞑想鉄拳には、うってつけの初舞台だ。
かおりさんはいらっしゃらなかったが、まいちゃんが前回とかわりなく明るく迎えてくれた。
今回初顔合わせとなる新スタッフきみかちゃんも歌を歌う人らしく、大阪に遊びに来たら天人で歌ってよと話した。
<時流を使う>
今日は実は、体は本調子ではなかった。節々が痛く、耳の後ろも痛い、喉の痛みもある。風邪?最近あまりの忙しさであまり寝てなかったので免疫が落ちていたのか…しかし舞踏の一派である傾舞(kabuku mai)の場合、あるがままの自分を見せるのが根底。
今の自分にしか出来ない表現を今集える人とその空間を作っていく。
その一期一会が舞踏だと思っている。
いつもの動きを追い求めるのではなく、今しかできない自分に挑戦し、逆に新たな新境地をつかむ。
この姿勢は僕の運命論にも当てはまる。ある親友の占い師に言われた事がある、「お前に占いはあまり意味が無い」運気がいい悪いではなく、悪い時にしかできない事に活用する人間にはイイ悪いはあまり意味が無く絶えず全てがチャンスなのだ。
人は金運が悪いと金運を渇望する。
ないとわかると、ないものをねだって苦悩するのだ。
最終的には風水などの秘術にすがってでも穴埋めしようとする…。
宗教チックにいうなら、それは未来の自分の徳をかき集めて今、消費してしまうようなもの結局は同じ事だと思うのだ。風水や占いなどの技術はダンスのテクニックと同じく素晴らしいものだが、縛られると自分を不自由にする。これらのテクニックは目的ではなく自分の人生を自由にするツールであるべきだ。
雨が降るのがわかっていれば傘をもっていけばいいし、求道者なら、雨に濡れても平気な訓練をするのにもってこいの時期となる…(^^)
一般に山あり谷ありがあって面白い。
僕の経験では、人の策略に乗ってしまって全てを失って、誰にも相手にされなくなった時期がある、不可抗力でまったくなす術が無い時、落ち込んでもしかたない。
誰も恨まず、悲しまず、これはチャンスだと徹底的に体を鍛え、体質改善とヨガ、気功に専念し勉強した。
それが今の自分のベースになっている。
「今を受け入る事に労を使わず
ままの己に立ちて、真中(manaka)の立ち上がりに心砕け。」
これは「傾舞(kabuku may)」の極意の一つでもある。
今回の舞台を見てもらえた愛地球博のプロヂューサーに
「天の岩戸(amanoiwato)みたいだった…。」
といわれた。
苦しみや闇の中からこそ光が生まれる。
終わったあと不思議な充実感をスッキリした虚脱感が僕を包んだ。
何かの種が確実に生まれた気がした。
※モジョライジング横山(2005)は、現在2022年「Mojo 最如虹 Rainbow 」
復活「瞑想鉄拳2022’」目撃せよ。