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料理本と動画

私は物心をつくかつかないころから、絵本と同じように料理本も一緒にながめてきた。料理本というには及ばない、何かのおまけについていた冊子だったり、紙ペラだったりもしたと思う。もちろん最初は漢字など読めないので、正確な情報はほぼわからなかった。

でも料理にはかなり幼い頃から興味があり、なんとなくの雰囲気はつかめていたので、そこから想像する勝手な妄想料理の世界が幼い子どもながらに大好きだった。

漢字がある程度読めるようになってからは、行程の間にある目に見えない手順を自分で妄想するのが至福の時だった。自分だったら家にある鍋でどれを使うのか、フライパンだったらあれにしよう、バットはないから何を代わりに使ってみようか、レシピには中火って書いてあるけど、うちのガス台だと本当に中火でいいのかな、塩適量っていったいどのくらいの量なんだろう、その適量をもう確かめたくて仕方がなかった。

今思うと、子どもなのにちょっと変態の域にいたと思う(笑)。でもその時間がたまらなく楽しかったのは事実である。

小学生3、4年生の頃、家にはじめてやってきた電子レンジの本に付いていたレシピブックは穴があくほど読み、そこでケーキ作りやパン作りの世界を知っていくことにもなった。汚れてふにゃふにゃになるほど使い込み、他の料理本に移行しても、年齢を重ねてもどんなに引っ越しても、結果的に夫の元に一緒に嫁入りし、もちろん今それを使うことはないが、今でも大切に保管している(というかもう捨てられない)。私の料理の原点がすべてがそこにつまっているような気がするからだ。

それがこの本↓

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その後もたくさんの料理本を小説を読むかのように読んできたが、自分がまさか料理本を作るなんてことはつゆほども思っておらず、はじめて料理本を出版したときには自分が一番驚いた。でも小さいころからたくさんのレシピを読みあさっていたおかげで、レシピ書きを誰にも教わることなく、ライターを一度も入れることもなく、処女作からすべて自分で書き下ろすことができた。とはいえ、最初の本のレシピは今見返すと初々しさ満点ではある。

私が著書や雑誌等でレシピ原稿を書くときは、できるだけ丁寧にわかりやすく表現することをいつも心がけていたが、時代が進んで行くにつれ、出版社からはレシピを短くするように、あるいは行程を簡略化するように言われることが多くなっていった。それがたとえ不親切な結果になったとしても、レシピが長い&行程が多い=難しい、時間がかかると捉えられてしまいがちなので、とにもかくにも簡潔にすることを求められたのだ。誌面には限りがあるので当然と言えば当然の話である。

例えば、簡単なところで言うと、「中火」の表記はすべて「トル」(校正用語でなくすという意味)にしたいと言われたことが過去にあった。自著ではなかったが、その時の担当編集さんいわく、本に火加減の指定がないときは「一般的に」中火とみなす、という決まりがあるのだという。まぁそうだけども・・・。たった二文字でも本の中の文字数にしたらとんでもない量になるというのだ。

でも、それはあくまで本を作る側のみの「一般的」常識であって、本を手に取って読んでくださる方がその決まりを知らなければまったく話にならない。私がなかなかYESと言わないことにしびれをきらした担当さんは、レシピの書き方的な編集者用の専門書のコピーを送ってきて、こう書いてあるから大丈夫だとも言ってきた。私からすると、文字を少なくすることだけにとらわれすぎていて、読者により理解してもらうことは全然よそに置かれてしまっている感じを受けてしまった。

そもそもその「中火」自体も、実はその人が使う調理器具の大きさやガス台などによって解釈が変わるという話までしたらきりがなくなるけれど、実際のところそれは料理において大事な話であって、本当ははしおってはいけないことでもある。

なんてことは、中火を「トル」方向にしたいと言われている時点で、口が裂けても言えなかったが。

(結果としては「中火」表記は入ることになりましたw)

他にも、火を使う行程をレンジに変えられないか、ということもよく言われるようになる。昨今のレンジブームはとてつもない勢いがあるからだろう。もちろんできる場合は対応するが、本当はレンジを使わない方がかえっていい場合でも、流行上なんとかレンジにしてほしいという場合もある。

つまり読んでくださる方々にとってそれがベストな方法ではない、ということが実はあったりするのだ。文字数が限られた誌面では両方は紹介できない。逃げ道も紹介できなければ、方法の選択肢を紹介することもできない。レシピは可能な限り簡素化するのが今の時代の流れだからだ。流行を取り入れたら尚いい、という流れ。

こういう感じでレシピの簡素化を求められる時代になったからこそ、私にとって誌面でのレシピ書きには葛藤がつきまとうようになった。自著ではわりと融通が利くが、それでも私が思い描いているすべてを伝えることは、ほぼ不可能だといってもいい。厳選に厳選を重ねた言葉だけをチョイスしていくことになる。

ちなみに、長年書いている料理ブログでは書きたい放題なので、書こうと思えばたくさん書けるが、書きすぎもやはりくどくなりためほどほどにはしている(笑)。

年々、いろいろと難しくなるなと思いはじめていた今日この頃。

そこで飛び込んでみた動画の世界。そもそも、時代の流れと共に人は文字をだんだんと読まなくなりつつある。行間を楽しんでもらうという時代も、もしかしたらすでに終わってしまったのかもしれない。とにもかくにも、SNSなどの発展に伴って、写真などのインパクトある視覚刺激からまずは物事を捉えるようになりはじめているのだ。

動画では、こちらの説明の仕方にもよるが、例えば同じフルーツソースの作り方でも端的に数種類を提案することができる。○○がない場合(○○は食材だったり時間だったり調理器具だったり様々)はどうしたらいいのか、ということを簡単に提案できるし実際に見せることもできるのだ。

受け取る側も、そっちの方法だったらできるかもしれないという可能性をすぐに知ることができ、やってみようと思える気持ちを持つことができる。再現欲に直結しやすいのである。

料理も「動画」の時代に移行しつつあるのだろう。若い世代の方々にとって動画はもはや当たり前の世界ではあるが、昨今の時代背景において、私たち第二次ベビーブーム世代にとっても、動画の存在は生活において非常に高い比重になりつつある。それを考えると、これまでは紙をペラペラとめくって料理を覚えてきた我々世代でも、動画で動きを見ながら覚えるという方法がこれからどんどん選択肢に入ってくるのだと思う。

動画は、レシピ本にあるような行間にある見えない行程(書いていない行程)をまったく想像しなくていい。使っている器具、微妙な火加減や塩加減、焼き色、タイミング、すべて目で確認ができる。香りは本と同様やはり届かないが、本と違って「音」が得られる点は料理において大変画期的なことだ。しかもそれが「ライブ」となった場合、リアルタイムで質問をし、その場で疑問を解決することだってできる。

そうなると、私が幼いころしていたような妄想が正直いらなくなってくるのだ。私はたまたまその妄想が好きだったが、今は忙しい方々も多いため、私のように妄想や空想にふけっている時間をそもそも持てない場合が多いと思う。いや、元々持たない方の方が多いのかもしれない。単に私が変わっていただけでで。

とはいえ、私からしたら、あの紙の匂いとか、本が年々古くなっていく感じとか、あるページにだけやたらにシミが多いところとか、やはり本独特のすばらしい面も知っている。私のレンジ本がボロボロになりながらも私と一緒に嫁いだように、料理本がいつまでもそんな存在であってくれることを願っている自分もいる。

いずれにしても、しばらくは動画の世界でみなさんと料理を共有することをがんばってみたいと思う。動画には、料理をもっと知っていただける可能性がかなりある。字だけだと面倒くさいとか難しそうと誤解されていた料理が、なんだかできそうだと思ってもらえる絶好の機会にもなる。今まで誤解を受けながらスルーされきた料理が、たくさんの人の目にとまるチャンスを得られるということなのだ。

何より私はどうやらライブ配信が好きらしい(笑)。本を作ったときと同じように、ワクワクしている自分が久しぶりにいる。


JUNA(神田智美)

家庭料理研究家

YouTubeにて、春頃からはじめるオンラインレッスンに先駆け、

無料オンラインレッスンを開催中。


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