古代の薩摩940年 #28

第二部 弥生時代 嵐の前の静けさ
鉱山担当=魏応の決断!
我が祖国の始皇帝が亡くなったという。李斯殿からはもう銀は送らなくてよいという手紙が徐福殿に届いたという。銀を掘っているここ石見(いわみ)や隣の砂鉄が採れる出雲(いずも)と薩摩との距離が遠い。もし、戦いに敗れた秦の一部が倭国に流れ着いたら大変なことになるかもしれない。市松と相談してこの2ヶ所は埋めてしまい、しばらくは手をつけないことにした。お紺(おこん)も薩摩に帰れると喜んだ。
一緒に働いていた30人も全員引き上げた。薩摩には今、菱刈金山と谷山錫(すず)山がある。帰ってきてあちこちを歩いているうちに串木野村で金山が見つかった。
市松が言うには、これから米つくりを各村に広めるためには、鉄の農具が欲しいという。秦から持っては来たが、全部の村に行きわったたわけではない。この国で鉄を作るにはまだまだ時間がかかりそうだ。そこで「金」を大陸との交易に使いたいという。
「これから仕事が忙しくなるぞ」。仲間たちに声をかけてまわった。

小太郎の述懐
秦の国で学んでから、あっという間に10年が過ぎた。もうすぐ30歳になる。徐三丈が3人も子を産んでくれた。秦では一緒に行った4人、それに魏応まで入れると6人で、10日に一度は市松の所に集まって午前中は学問を、午後は体を鍛えた。李斯様の計らいで棒術などの武道や戦の事も学んだ。きっと役に立つことがあるからと言われた。
「倭の国では経験も見聞もないから、必要ではないのでは」と農耕勉強中の翔が言うと市松に怒られた。まあ、体を鍛えるのはいいことだとある程度納得してみんなで頑張った。こちらに帰ってからも行かなかった仲間を加えて、5日に一度は広場に集まっている。
史進は10歳から始めたとかで、剣を持たせるとものすごく強い。健もやる気満々だ。いざという時の為に、市松が15歳から25歳までの男80人を各村から選抜して、集団で動く訓練なども取り入れて鍛えている。
始皇帝が亡くなったあとの大陸の動きが妙に気になるのだそうだ。船づくりは順調で各村の川のほとりや海岸に2隻ずつは置き、人や物の運搬に役に立っている。

この物語は、薩摩の古代の歴史をドキュメンタリー風にしてみました。
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いつか映像にしてくださる方がいると嬉しいです。 吉峯盾

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