古代の薩摩940年 #27

第二部 弥生時代 プロローグ 孟達のつぶやき
この国に来てまず驚いたのは、村の正式名称がないことだった。そこで村人達に自分達で名前を付けてもらい、私がそれを文字で書き表してしてやることになった。
そして出来上がったのが次の18か村である。北から菱刈(ひしかり)・祁答院(けどういん)・市来(いちき)・姶良(あいら)・隼人(はやと)・知覧(ちらん)・川辺(かわなべ)・伊作(いざく)・田布施(たぶせ)・阿多(あた)・加世田(かせだ)・万世(ばんせい)・笠沙(かささ)・津貫(つぬき)・長屋(ながや)・坊ノ津(ぼうのつ)・肝付(きもつき)・根占(ねじめ)。
徐福殿が世話になり、また、面倒も見てやった村々だそうである。秦ならばこの広さならば、県という行政範囲である。
私はその県名の名付け親を託された。いろいろ考えた末、ここは私からすると珍しいくらい女性を大切にする土地柄なので、佐妻(さつま)はどうかと徐福殿に提案した。佐は「助ける」妻は「女性」を指す。すると、徐福殿は、「音はいい。文字は『薩摩』ではどうか」と言う。
最終的には市松の判断で、薩摩と言うやや重みのある字に落ち着いた。

私は儒者である。村人に道徳を教えるのだろうと思って倭国に来たが、(もちろん県令など出来ようはずもないので)、そんな必要などないのである。逆に日常の生活ではこちらが教えられるという方が多いくらいだ。これは困った。ただ飯食いは嫌である。
すると、市松が2つの仕事を持ってきてくれた。1つは村人に簡単な文字を教えること。例えば「山」という文字は、向こうの高い山を指す文字だが、秦では「シャン)と発音する。これを倭言葉の「やま」にするという具合である。
市松は秦に1年以上いたから、読み書きはかなりできる。便利だから村人たちに少しずつ教えてくれと言う。願ってもない仕事にちょっと興奮した。もうひとつは、大人達が仕事をしている昼間の時間に、子供達を広場に集めて遊ばしてくれと言うのだ。もちろん、謹言や茜、李蘭などが交代で手伝ってくれるという。こっちの方は本当に楽しい。私ももう60歳を少し越した。市松はいいやつだ。

この物語は、薩摩の古代の歴史をドキュメンタリー風にしてみました。
商用・非商用の区別なく、事前の承諾を得ることなく無償で複製し、二次利用(外国語版、パロディ、アニメ化、音声化、小説化、映画化、 商品化など)を行うことが可能です。 二次的著作物に関して原著作物の著作権を行使しません。また、著作者人格権(同一性保持権)を行使しません。
いつか映像にしてくださる方がいると嬉しいです。 吉峯盾

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?