古代の薩摩940年 #29

第二部 弥生時代 翔の米つくり計画
秦人(しんひと)の程信さんと葉敬さんの指導で水田つくりは着々と進んでいる。
川が近くにある万世、田布施、阿多、津貫、伊集院、姶良の各村や、海辺の笠沙、伊作、根占の各村の平地に水稲を、川辺、祁答院、加世田の山地や盆地には陸稲を、桜島村や肝付のような火山灰土では稲は無理なので、芋(いも)や粟(あわ)を栽培している。
この中でも水稲栽培は高度な技術と細やかな手入れを必要とする。春先まず、水田ではなく、狭い土地に種を蒔き、少量の水を与えながら掌の長さよりちょっと長めになるまで育てる。これを「苗」という。一方、水田の準備もいくつかの手順がある。まず、固くなった土を稲の根が充分伸びて行けるように鍬(くわ)で掘り返す。これを「田おこし」と言う。次に田に水を入れ、表面を平らにする。これを「代かき(しろかき)」という。
さあ、いよいよ田植えである。水の張ってある田に苗を数本ずつ土の中に順々に差し込んでいく。大変な重労働なので多くの人が横一列に並んで作業を進める。腰が痛くなりそうなので、若い女の子達が声を揃えて歌を歌うと、能率が不思議と上がる。後は夏まで稲の成長を待つ。時々雑草を抜いたり、害虫を駆除しなければならない。
暑い夏のもう一つの仕事は「中干し」である。一旦水を抜く。すると稲の根は水分を求めてなんとか根を伸ばそうと努力する。このひと手間で秋以降の茎が強くなり、収穫が上がる。再び水を入れるわけだが、米作りの成否はこの水の管理がちゃんとできるかどうかにかかっている。
山の上やため池から水が全部の田に平等に流れるようにすることを灌漑(かんがい)という。水の流れている小川と田の間には堰(せき)と呼ばれる取水口を作り、木の板を上下させて水を入れたり、出したりする。
秋には収穫期を迎える。石包丁で穂先を摘み取る。コメは籾(もみ)のままなら1年くらいは保存できる。各村には10棟ずつ高床倉庫を造った。風通しを良くする工夫やネズミ返しを伝次さんが工夫して作ってくれた。一方、陸稲や芋や粟などは直播(じかまき)と言って、土を柔らかくしたらその中に種を蒔き、軽く土を被せておけば芽が出て勝手に大きくなる。もちろん時々の水やりは大切だが、水稲にくらべたら、楽である。しかし美味しさが違う。

今、栗の木を育てる場所を探している。やりがいのある仕事があって幸せだ。

この物語は、薩摩の古代の歴史をドキュメンタリー風にしてみました。
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いつか映像にしてくださる方がいると嬉しいです。 吉峯盾

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