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三由浩司さんのこと

三由浩司(みよしこうじ)さんという大学の先輩が、久留米の高良山の麓にある、最深部2mほどの、きれいとはいえないため池のほとりの、風呂はなくてガスは10分使うたびに、いくらかコインを入れるようなアパートに住んでいた。

三由さんは、『じぇじぇじぇ』が流行る何十年も前に、『じぇ』を私に教えてくれた人だった。

「ヤマイデ、こないだ、女郎屋に行ったっちゃんね」
「そしたら、どえらいバアサンが出てこらっしゃったやん」
「しょうがなし、やることやるばいてがんばっとったら」
「兄ちゃん、しぇっくすはムードばい。て言われたじぇ」

などと馬鹿をいいつつ、安い日本酒をコップになみなみと注いでくれ、アテの梅干しをすすめてくれた。
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学祭のある11月初旬、夜になると吐く息が白かった。

詩を書くより、ほぼやることのない連中が集まったサークルでは、伝統的にタコ焼きを売ることになっていて、われわれ一回生はこまごまと働き、それから四方にベニヤを張った薄暗いテントで、タコ焼きをあてに酒盛りが始まった。寒い夜だったけど、いつまでも大笑いしながら飲んでいた。

翌朝、森君という同級生が妙に早起きしてしまったらしく、午前7時頃にバザーのテントに出て行った。森君は、霜がおりて真っ白になったグラウンドに、誰か倒れているのを見た。誰にしても、いいことではない。

近寄ってみると、やはり三由さんだった。三由さんは、外したメガネを片手に持って、真っ白に霜がおりたグラウンドに仰向けに横たわっていた。三由さんのまわりには、人の形に霜が溶けていた。

起こすと、「ああ?」とかいって、くだんのアパートに帰っていったらしい。
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ある夜、コンパの帰りに三由さんは田んぼに落ちた。だいぶがんばって脱出しようとしたらしいのだけど、彼は背が低く、稲は収穫直前で高い上にも高く、やがてめげて、そこで寝ることに決めた。

翌日、アパートに行ってみたら、泥のかたまりのような服が、彼の部屋の前に盛り上がっていた。
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秋のある日、遊びに行ったら、三由さんは四畳半の部屋の片隅に、押入れのように造りつけられたベッドに(押入れだったのかもしれない)、背中を向けて寝ていた。もう世の中のすべてのことを、おれは認めないという風だった。

「ああ、ヤマイデか」
「冷蔵庫に柿があるばい」
と三由さんは、力なくいった。

「ゆうべ、隣の家の柿が実ったけん、取りに行ったっちゃんね」
「木に登ったら、去勢したシェパードが、わんわん吠えてから」
「こっちは木の上やとに、家の明かりがどんどん灯くっちゃね」
「こらいかん、て木を降りて、逃げたとばってんが」
「鉄条網のあったとやん。行きはスムーズにくぐれたとばってん、帰りはポケットに柿の入っとろうが」
「柿でふくらんどるけん、鉄条網に引っかかったとやん。スティーブ・マックイーンみたいに」
「えい、て無理くり逃げたもんやけん、一張羅のVANのジャケットがかぎ裂きになってしもうて」
「あれ、3万円したとばい」
「そいで柿は、渋柿やったじぇ」
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鹿児島から彼女が遊びに来た時、三由さんはタクシーで居酒屋に連れていってくれた。
しばらくしてお礼にいったら、彼の部屋のオーディオやテレビがなくなっていた。
私たちを居酒屋に連れていくために、質入れしてくれていた。
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三由さんは、高校時代に音楽にはまり、ブルースバンドでボーカルをやっていたらしい。彼が部室のギターで『Get Back』を歌うと、そのままブルースになった。

大学ノートにボールペンで小説を書き殴っていた。それはほんとに、書き殴る、というようなものだった。
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三由さんは自動車の鋼板を作る会社に就職をして、やがて工場の業務改善で功績を挙げ、他社へのコンサルティングができるほどになっていたことを、web上の記事で知っていた。

3年ほど前に、その会社の問い合わせフォームから連絡してみたら、上司の方から電話をいただいた。

コンビニで買い物中に突然倒れて仕事を続けられなくなり、今は故郷の八代に帰っているという。あなたのことはよく話していましたよと聞いて、涙が止まらなくなった。

人生は短い。のたり松太郎は長い。と書いた、 永倉万治も早くに死んでしまった。

会いたい人には、会える時に、会っておくべきだと思う。あたりまえのことだけど、なかなかできない。
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写真は、当時の部室。詩集を作るのにガリ版を切っているところ。左端が三由さん。福井智昭さん提供。

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