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(本)なぜ私だけが苦しむのか: 現代のヨブ記


がんの闘病記や幼い子供を亡くした親の話などを聞くと、
「いったい私がどんな悪いことをしたというのか・・」
といった趣旨の発言が見られることが多々あります。

日本は特定の宗教を持たない方が多いですが、キリスト教の人々は
「なぜ神は私にこんな不幸を与えた(る)のか・・」
といった内容の問いに変わるそう。

本書は、ユダヤ教のヨブ(司教)であるクシュナーが、自分の子供をプロゲリアという難病で早くに亡くしてしまった経験を通して、その壮大な問いに対して考察した内容をまとめたものになっています。
自分の勝手なイメージで、キリスト教なりユダヤ教の信者の方は、神という存在をある意味「盲信」し、神に与えらえたと思しきいかなる幸も不幸も黙って受け入れるような想像をしておりました。本書を読み、(当たり前ですが)神という存在に対し、疑問を呈し、意見もする。そんな一個体の姿が垣間見れて、興味深いものでした。
むしろ、日本でも冒頭のように
自分がAという悪いことをしたから、現在の状況に至っている
という因果を見出す人が多い印象ですが、それに対しても否定しているあたり、ある意味、無神論者よりドライ・冷静なのかなという印象も受けました。

さて、本書のタイトルにもある壮大な問い。
”なぜ、私だけが苦しむのか?”
これに対して、
①この問いが自分に対してぶつけられた場合
②自分がこの問いを抱いた場合
の2つのケースに分けて見てみたいと思います。

①この問いが自分に対してぶつけられた場合
下世話な話になってしまいますが、この場合の答えは、その手のモテ技術で男性側に求められるものと同じです。

その苦しんでいる人のそばに来て、話を聞き、同情すること

仮に「なぜ自分だけが苦しむのだろう?」と言われたとすると、多分、大抵の人(特に男性)は
「他にももっと苦しんでいる人がいる」
「〇〇したせいではないか」
「そんなに悩むなよ」
といった助言をしてしまいがち。でも苦しんでいる本人からすると、そんなセリフはクソの役にも立たないわけで、むしろ逆効果。
一番必要なのは、誰かが自分の痛みをわかってくれているのだという実感。
慰め、力を与え、責めないで抱きしめること。
シンプルですが、それが一番なのですね。
モテない男子、女子にアドバイスしてしまいがち問題がありますが、根っこは一緒かもしれません。むしろ、コミュニケーションの比較的大きな割合、実利のアドバイスよりこういった「感情・気持ちの受容・共有」の方が重要なのかもしれません。

②自分がこの問いを抱いた場合
自分だけ難病に罹患したり、子供を幼くして亡くしたり。
生きていれば、苦しいことは山ほど出てきます。
ブッダも生きること自体苦しいことだ、といっているのでこれは昔から人類が避けては通れないことなのですね。
こんな疑問に対し、著者は断言します。
それは、答えることのできない問いだし、無意味な問いであり、よりよい問いは「こうなってしまった今、私はどうすればいいのだろうか?」というものだ、と。

善行ばかりをしている人でも不幸に見舞われるし、悪行ばかり働いている人でも幸せな人もいる。ものの本に書かれているような、悪行を働く人は将来的には失敗します!なんてありがたいお説教に意味はないのと同じように、自分に起きた幸せも不幸せも、特に「理由」はない。
非常にドライ、というか科学的に偏ったような見方にも思えますが、ランダムで起きてしまう事象に対し、なぜ起きたのかを問うても一生答えは出てこない。自然界のルール上、そうなっているからとしか言えません。でも、人間はともすると因果や理由を探してしまいがち。そして、自分を過度に責めてしまいがち。
そうではなく、今できること、これからできることに集中せよという至極シンプルなアドバイスなのでした。

たしか「スゴ本」のDainさんが紹介していた一冊。
以前買ったものの、しばらく積読が続いておりましたが、ついに紐解きました。
初版は1981年だそうですが、今も色褪せずに読めます。



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