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越境していく音楽~クラシックコンサートのオーガナイズをめぐって思うこと~

 演奏会と集客を考えるときの壁

年に4回の演奏会を企画し、そのうち1回は自分のソロ公演をしよう、というのを昨年から試みている。かなり限られた予算でそういうことをしていると、コンサートのプログラミングやオーガナイズ、集客や広報など、様々な面でとても苦労して悩む。ファン層を選ぶクラシックコンサートにおいては、集客のために「皆が知っている」曲を演奏することが好まれる傾向にある、特に関西においては。これが、思った以上に大きな壁になっていると感じる。「世界でも評価された有名な演奏家」「有名な曲」というのは人を集める常套手段であるけれど、聴衆の「文化的発展」という事を考えると、こういう状況は極めて危機的な気がする。何より、本当に志と腕のある演奏家や煌めくものを持つアーティスト達が、そういう状況では正当に評価されずに活躍のフィールドがなかったり、折角の技術やアイディアが台無しにされてしまったりする。演奏家はチャレンジをしなければ腕が落ちる。感覚が鈍る。つまりそれは、演奏家の腕を落とすことにつながる上に、聴衆の「聴く力」をますます衰えさせ、それって文化的な衰退ではなかろうか。

音楽の聴き方の幅

一方で自分の「知らない世界」に演奏会を通じて出会うこと、音楽を共有する愉しさや快楽以外にも音楽の不思議さや疑問、音に対する不快感などをも感じることに価値を見出してくれる人達に、コンサートシリーズを通して出会うことができ、そのことにとても救われる思いがする。音楽を様々な角度から触れることで、さらに音楽に対する関心が増す。そんな風に積極的に音楽に向き合ってくれる人は少数にすぎないのか、まだあまり出会えていないだけなのか、わからなくなるときがある。ただ、この10年の教員生活を通して感じるのは、聴き手の「音楽の聴き方(音楽との向き合い方)」は一定演奏者(授業では教員であるけれど)が導いていくことで、音楽の中に面白さを見出す術、つまり聴き手の「聴き方」の幅を広げていくことができる、ということだ。

作品の魅力を掘り起こす

ここでもやっぱりクルレンツィスのことを考えてしまう。先週クルレンツィスについて書いたのだけど、彼らの音楽があまりに衝撃でなかなか頭から離れない。例えば2017年度音楽之友社主催のレコード・アカデミー賞を受賞した彼らのチャイコフキーの『悲愴』の演奏。まずスピード感や解釈が、かつて名匠による演奏録音で聴いたこの作品に対する印象と大きく違うことにいちいち驚くけれど、例えば『悲愴』の聞き慣れたメロディーの裏に、低弦のモチーフが対旋律のように浮かび上がり、これがこんなに効果的に音楽を肉付けするものかと驚いたりする。今まで見過ごされていた作品の魅力を、聴き手に次々に明示してくれる斬新さを演奏全てにおいて感じる。

今や膨大な音楽がオンラインで手軽に楽しめるようになり、CDは全然売れない時代になっているけれども、彼らの演奏やCD製作のクリエイティヴな姿勢(CD全体のコンセプトやブックレットまでも)は、これなら買ってじっくり味わいたいと思わせるものがある。

実のところ、チャイコフスキーのバイオリンコンチェルトや『悲愴』は、クラシック音楽にある程度馴染みがある者にはやや食傷気味でもあるレパートリーである印象であった。ところがクルレンツィスの演奏は、そうした従来の楽曲に対するイメージをとことん覆そうとする。聴く者に「この曲って、こんなに面白かったっけ?」と思わせるのは、もの凄いことだと思う。実際のところ、彼らは本拠地のペルミ(ロシアにある小都市)で、上演する作品に対して実に念入りに時間をかけて作品に向き合い、その完成度を高めていくという。奇をてらっているわけではなく、作曲家の意図や作品の新たな魅力をとことん発掘しようという揺るぎない信念とプロセスが感じられる。(だけど関西ではやはり、こんなに話題になっている彼らでさえも「あまり知られていない」気配を感じるので、私も声をあげて彼らを紹介したいと思う。)2月の来日の際に、東京での3公演の合間にクルレンツィスとコパチンスカヤらを交えたトークセッションが行われた。その詳細はONTOMOに紹介されているが、その中のクルレンツィスの言葉に心が揺さぶられる。

クルレンツィスのボーダレスな姿勢

「私たちはコマーシャリズムや、さまざまなクリシェ(常套句)を避けて、クラシックに新しい情報を吹き込むことを望んでいるのです。それがこのジャンルが将来も栄えていくための「種を植えこむこと」になると信じています。」
「この世の中は商業的になっているのかも知れません。自分の信念を持って物事を追究している人間のほうが奇妙に見えてしまう。でも、真実を求めて生きることは重要だと思います。」

さらにONTOMOでは、クルレンツィスの音楽的なルーツにも触れている。彼が80年代後半にアングラカルチャーに浸かり、世界中のマイナー音楽に親しんできたという。筆者の小田島さんは「世の中にはボーダーが多すぎる。クラシックの世界でも、もっと自由で面白いことが起こってもいいような気がする。」と書かれているが、私はこれに激しく共感する。私自身、10代の時にクラシックよりもむしろそれ以外の様々な音楽に積極的に触れてきた。そのうえで、現代音楽も含めてクラシックってとてつもなく面白いと思う。そしてもっと面白くなってもいいのにと思う。トップの画像は、現在ケルンで開催中の音楽祭Acht Brückenの会場の一つ、Abenteuerhalle Kalk。スケートボード(の音)も今回音楽祭の一部に取り上げられる。


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