見出し画像

森鷗外論:日本文学史(ドナルド・キーン)から その②


その①の続き。



諦念(resignation)

鷗外を理解する際に外せない概念が「諦念」。英語ではresignation。
この概念を理解するためには、「妄想」、「かのように」は必読だ。
この諦念という解釈をずっと考えているのだが、積極的に捉えるか、消極的に捉えるか、で意味が変わってくるような気がする。

消極的に捉えること:鷗外は陸軍という極めて保守的な組織の中枢にあり、山縣有朋の庇護を受け出世してきたことは事実である。
そして、その地位は守りたいので、大っぴらな抵抗ではなく、秘かな抵抗として、小説を通じて「曖昧」な形で自らの考えを伝え、自己矛盾を解消している、という考え。

積極的に捉えること:鷗外は相当に自信家だ。そして、自らが国家を支えている、という強い自負があったはずだ。(国家を支える意識、という観点では「舞姫」につながる)
鷗外は、西洋の合理主義的な考え、自由主義的な考えが日本の社会に必要だと思っていたに違いないが、それを組織の中枢に入ることで実現することが最も効果的、という冷静な判断があったと思う。
山縣有朋よりも高みを見ていた。
大逆事件を暗に批判した「沈黙の塔」からも、社会的な地位維持のリスクを負っていたことは想像がつくし(消極的な解釈にはなり得ない)、鷗外の有名な遺言「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」からも、彼が地位や名誉に頓着する人物ではなかったことがわかる。

脱線するが、この遺言を肌で感じるべく、昨年の夏に三鷹の永明寺に鷗外の墓参りに訪れた。ちなみに、鷗外の墓の前に太宰治の墓であることはよく知られている。


森鷗外の墓。森林太郎とある。
三鷹にある永明時
太宰治の墓が森鷗外の墓の前にある

閑話休題。
現在でも「諦念」を以って人生を送っている人は大勢いるのではないか。
自分もその一人で、社会不義、不合理、矛盾をなんとか自分の中で消化し、折り合いをつけている。
「かのように」として物事を捉えている自分がいる。
なぜ鷗外作品を読むのか?
”積極的な「諦念」を持ちなさい”、と励まされている自分を感じるため、そこにロールモデルを見い出すためかもしれない。

自己の生活に取材した作品の中で、鷗外はしばしば自分の態度に言及している。ときには、それは傍観者の態度であり、ときには「あそび」であり、あるいはレジニアション(諦念)である。
みずからを第三者とするこのような態度は、生活のあらゆる艱難を克明に描き、その真っ只中におけるもがき、苦しみを記録した自然主義文学とは反対の極にあるものと言えるだろう。

革命思想からはほど遠い鷗外であるが、みずからを傍観者の立場に置くと称しながらもなお、彼は強権をもって言論の自由を圧殺しようとする政府の方針に危惧を抱いていたようである。
文明社会を保持するためには「かようのように」の哲学に支えられ、虚偽を虚偽と知りつつ受容するほかない。そう信じる五条秀麿という虚構人物の口を借りることによって、鷗外は一市民としての責任を果たそうと考えたのであろう。

西洋に留学し、すべてのものに懐疑の目を向けるべく訓練された知識人としての自分と、家に伝わる侍の精神を誇りとする帝国陸軍の一員としての自分の生活とは、「かのように」の哲学を導き入れなければ折り合いがつかなかったに違いない。
鷗外のこのような二面性は、彼自身を内面に苦しめるとともに、また社会的にもきわめて苦しい立場に立たせた。


「渋江抽斎」


「渋江抽斎」については、以前、Noteにまとめたこともあり、本著より、「渋江抽斎」に関する内容を引用してみたい。

前述の「諦念」との一貫性を感じることができる。
鷗外の「諦念」とは、自分の内面は誰もが理解できない、理解する必要がない、というメッセージも含まれるのではないか。
それは反自然主義、という小説家としての立場だけでなく、生き様として、先に触れた通り、”自分は「林林太郎」以上・以下でもない、内面を理解できるのは自分一人でしかない”、という達観でもあるのだろう。

「渋江抽斎」を評価し、敬愛する人々があげる名作たる理由は、一般の読者が倦怠を感じたときとまさに同じ点になっている。
抽斎が抽斎をめぐる人々の生涯を、鷗外は中国の史家が歴史書を書くにも似た態度で述べる。なるたけ事実に即し、それから離れまいとする。
登場人物の性格を分析したり、その情緒面に立ち入ることは、かえって不必要な俗味を持ち込み、文章の叙事詩的リズムを破壊すると、鷗外は信じていたようにさえ見える。

自然主義の作家たちは、人の表面的な行動を看破して、その底にひそむ複雑で利己的な動機をさぐりうる能力を自認していた。それゆえに、形の上の善行には必ずどろどろした裏面があると信じていた。
鷗外はそうした考え方に対して挑戦状を突きつけているのである。

同じように、抽斎とその一族について鷗外が書いてきたことのすべてに、自然主義文学は逆に疑問を呈しうるだろう。
鷗外は人物の表面を突き破らず、その奥にあって行動の一つ一つを御している人間性の醜悪さから目をそむけている、と批判できるわけである。

しかし、ここにおいて鷗外は敢然と反問している。人間の動機の真相がはたして知りうるものであろうか問うわけである。
表面の善行が嘆賞するに足りるなら、それはそれで、そう書けばいいではないか。善行の底にひそむものがわからないからといって、それを書かずにおくのは良心的な作家がとるべき道だろうか、と。

長いあいだ大衆に歓迎されなかった「渋江抽斎」は、今日では多くの批評家によって鷗外文学の最高峰に置かれている。
しかし、どれほど鷗外の史伝を敬愛する人でも、そこにはドラマ性がほとんど存在していないこと、文学の中に通常扱われるべき人間の心理的葛藤が欠落していることを認めずにはいられないだろう。

しかし、通常の葛藤、興味をかき立てたであろう起伏のかわりに、そこには人間の生命を貫く叙事詩のような流れがある。しかもそれは、人工をもって増幅されていないだけに、よりいっそう読む者の心に迫る。
鷗外文学の理解者は、史伝の中に汲めども尽きない味わいを感じ、その感じは読み返すたびにいやまさりゆくようである。

しかし一般の読者にとっては、「渋江抽斎」は唯一の例外として、鷗外の史伝は近寄りがたいものでしかない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?