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「渋江抽斎」森鷗外

森鷗外は、人生の最後に「史伝」作品群を残し、その中でも最も知られている作品が「渋江抽斎」だ。
”史実を淡々と述べていて無味乾燥である”、という評もあるようだが、自分は、鷗外の作品の中でも多いに関心を抱く作品のひとつだ。

鷗外は、「舞姫」から始まり、その作風の変遷が特徴的だが、日本の近代化という大きな変革の中に体制側に身を置き、最後、「史伝」に辿り着いたことは、説明がつくような気がする。

ひとつのキーワードが考証学。
渋江抽斎も考証家であり、鷗外が自らを渋江抽斎に見立てていたのであれば、合理的な欧米的知識をバックボーンとしていた鷗外にとって、考証学は拠り所になっていたのではないかと思われる。(これは「かのうように」にもつながる)

歴史小説作家で好きな作家のひとりが吉村昭だが、彼の作品も司馬遼太郎と比べると、事実を淡々と積み重ねるアプローチだ。
吉村昭のこの修飾文がない作風は、却って、読み手側に歴史が迫りくるような印象を抱かせる。「渋江抽斎」を読んでいると同じような印象を得る。

この小説は、渋江抽斎死去後も話が続く。
というよりも、死去後が本編のような気もする。
鷗外の家族思いは有名で、この作品で自らの死後を子供たちに託すような思いも伝わってくる。
渋江抽斎亡き後も、渋江家は、明治維新、士族没落という荒波を乗り越え、特に妻の五百(いよ)を中心に新たな時代を逞しく生き抜いていく。
この小説は、登場人物が多いこと、主人公がいないこと、が特徴なのだが、それゆえに”人”にフォーカスした歴史小説といえ、イベントドリブンの歴史小説よりも、時代の息吹を実感することができるだろう。

なお、この小説は新聞に連載されたものであり、適当に長さが区切られているので読みやすい。また、時々で登場人物のその時代の年齢のおさらいがあり、それも工夫がされている。

ところで、この五百(いよ)は、鷗外の理想の女性像を表しているようで興味深い。
鷗外は、津和野藩代々の典医の家に久しぶりに誕生した男子であった。
(それまでは女系が多く養子を得る。鷗外の実父も養子)
そのような背景もあり、特に、祖母や母の鷗外に寄せる期待は大きく、英才教育があったようである。鷗外は、父よりも祖母、母に強く影響を受けているように思える。
そして、何よりも鷗外の作品には、精神的に自立した強い女性像が多く描かれている。


「渋江抽斎」の面白いところは、史実を丹念に描いているので、特に江戸後期から明治初期に生きる人々の生活、考え方、例えば知識人の処世を理解することができる点だ。
鷗外自身、近代化、西欧化が急ピッチで進む中、江戸時代にあった、良き姿勢、文化、慣習を改めて世に問おうとしたのではないか。
そして、それは現代社会でも十分に考慮すべきことであったりする。
(この点が「渋江抽斎」を読む意義でもある)
以下、小説の中から引用しながら、それらの点に触れていきたい。

抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購うと客を養うとの二つの外に出でなかっただろう。
・・・
抽斎の家には食客が絶えなかった。少ないときには二、三人、多いときには十余人だったそうである。大抵書生の中で、志があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。

「渋江抽斎」

江戸時代には、多くの蔵書家が存在し、渋江抽斎もその一人であった。(鷗外もそうであったが)
蔵書を貸借したすることで知の交流を図り、知識人は、社会への還元という観点で学ぶ場を提供していたのだろう。
それは、確かに経済的な目的は存在しない。



五百(いよ)が鍛冶橋内の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲の嗜みを験されるのである。
試官は老女である。

「渋江抽斎」

五百は漢訳和訳を読んであきたらぬので、とうとう保(息子)にスペリングを教えてもらい、ほどなくウイルソンの読本に移り、一年ばかり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。

「渋江抽斎」

五百は、渋江抽斎の4番目の妻であるが、女性であったとしても、(基本、士族であろうが)相応の知識水準が求められていたようだ。これは、現代人が抱く、封建社会の女性像とは合致しないのではないだろうか。
ちなみに、4番目の妻ということだが、前妻はいずれも病死である。
「渋江抽斎」を読んでいると、多くの登場人物が若くして亡くなり、特に子供がそうだ。
そのような社会にあると命の捉え方も変わってくるのだろう。
(社会が生命を共同体のように守っていく意識があるに感じる)



抽斎は終に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もし、この人が旧新約書を読んだなら、あるいはその中にも契合点を見出して、彼の安井息軒の『弁妄』などと全く趣を殊にした書を著したかも知しれない。

「渋江抽斎」

鷗外は、若くしてドイツに留学し、本業の医学だけでなく、欧州の哲学、思想、文化を幅広く吸収してきた。鷗外は、この西洋文化の視点から東洋文化を捉えることに苦心してきた感があり(圧倒的に少数派)、上記一文にその思いが込められているように感じた。



飾屋長八は単に渋江氏の出入だというのみではなかった。天保十年に抽斎が弘前から帰った時、長八は病んで治療を請うた。その時抽斎は長八が病のために業を罷めて、妻と三人の子とを養うことの出来ぬを見て、長屋に住ませて衣食を給した。それゆえ長八は病が癒えて業に就いた後、長く渋江氏の恩を忘れなかった。

「渋江抽斎」

渋江抽斎は弘前藩の侍医であるが、多くの期間は江戸にいた。明治維新となり、弘前に戻らざるを得ない時に、飾屋長八のように身分の違いから弘前に連れていけない人たちがいたようだ。
現代人からすると、江戸時代は封建社会で身分制度も厳しく、、、という感があるが、当時、養子も盛んに行われていたし、この事例でも分かるように、社会が共同体として強く機能していたように思える。



今の教育はすべて官公私立の学校において行うことになっていて、勢い、集団教育の法に従わざるこをと得ない。そしてその弊をすくうには、家塾を夢みるものがある。

「渋江抽斎」

勝久の陸(くが)はただに長唄を稽古したばかりではなく、幼くして琴を山勢氏に学び、踊りを藤間ふじに学んだ。
・・・
陸は遠州流の活花をも学んだ。碁将棋をも母五百に学んだ。五百は碁は二段であった。五百はかつて薙刀をさえ陸に教えたことがある。

「渋江抽斎」

陸とは、渋江抽斎の娘である。
長唄で生計を得、弟子もいたようである。
ここにも、自立した女性像を見出すことができる。
鷗外の娘、森茉莉、小堀杏奴も自立した女性だった。


台東区谷中の感應寺に渋江抽斎の墓はある


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