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森鷗外論:日本文学史(ドナルド・キーン)から その①

加藤周一著の「日本文学史序説」と同様、今回はドナルド・キーン著の「日本文学史」から森鷗外に関する評論の中で自分として押さえておきたいポイントを取り上げてみたい。(二回に分ける)


ドナルド・キーン著の「日本文学史」は古代・近世から現代まで全18巻。
今回読んだのは、近代・現代篇二巻。

「日本文学史」の特徴としては、作家の全般的な評論に加え、主要な作品の書評が紹介させていること。従って、それら作品を読んでいれば、理解が深まるし、読んでいなければ、消化不良に終わってしまう。
つまり、作家のどの小説を読もうか?参考にするためにこの本を読むのではなく、作家の主要作品を一通り読んでから、この本を読む方がよいと思う。

本著の章立は以下の通りだが、漱石と鷗外は”文豪”と評されるだけあり、固有名詞で頁が割かれている。
事実、この二人は、カテゴリー化するに並べたてる作家がいない、日本文学史上、傑出した両巨頭、ということなのだろう。
【章立】
・自然主義(国木田独歩、田山花袋、島崎藤村等)
・夏目漱石
・森鷗外
・白樺派(武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎等

なお、鷗外には反自然主義小説もあり、日本の近代文学史の流れを押さえる意味でも本著は重宝になるし、一読に値する。



鷗外と漱石


漱石の文学は、教養の度を問わず広い読者層に迎えられてきた。漱石を仰いで文豪と呼んだのは、文学が人間の理想と、その理想に向かうための苦しみを体現していなければならぬと考えた人々であった。
それに反して鷗外の文学は、職業的な作家や知識人によって崇敬される。
彼らは鷗外の晴朗でアポロニッシュな態度と、日本の伝統に対して払った深い敬意とにうたれて、鷗外の前に拝跪するのである。

その異質性のかなりの部分は、二人が育った環境によるものと思われる。
漱石はみずから江戸っ子を称し、それを誇りにしていたし、名主の子ではあったが、講釈師などによって継承されている江戸庶民の世界に育った。
それに反して鷗外は、徹頭徹尾の侍であった。
生れ育ったのは山間の小藩、津和野であり、漱石が里子に出されたり養子にやられた末っ子だったのにくらべ、鷗外は藩の典医の長男であった。

ところで、昨年、森鷗外記念館の特別展「千駄木の鷗外と漱石」に行ったのだが、お互いに自らの署名入り作品を贈ったりと、意外にも二人の間に交流があったことを知るいい機会になった。


アポロニッシュとディオ二シッシュ


アポロニッシュディオ二シッシュはニーチェが用いた哲学用語。
前者は近代を象徴する“理性・合理性・客観性・計画性・科学技術”を志向し、後者は非近代を象徴する“陶酔・熱狂性・感情性・刹那性・芸術性”を志向する。
この概念は鷗外作品、また当時の文壇を理解するに認識しておきたい用語。自然派文学は後者なのだろうが、鷗外はそれを批判的に捉えていた。

「ヰタ・セクスアリス」は鷗外自身の性的体験をあるがままに書いたもので、発表当時はセンセーションを起こし、風俗壊乱のおそれありとして発禁処分を受けたが、性欲に対して向けられた鷗外の目はきびしく、冷ややかであっても、決して読者の好色に媚びたものではない。
世の人すべてが性欲に支配されてはいず、ディオ二シッシュな人もいる反面、アポロニッシュな態度で自己の性欲を真正面から眺めうる人もいるものだ、という鷗外の信念を披瀝したものといえる。


鷗外が問いかける「曖昧さ」


鷗外の面白さのひとつに「曖昧さ」が挙げられる。それとセットに人物に対する表現力の巧みさがある。
つまり、「曖昧さ」の中に読者の想像力が試されわけだが、鷗外は登場人物について細かい仕草を含めて卓越的な表現力があり、それが読者の想像力をかきたてることを助ける。
おそらく鷗外が医学を学んだこと、海外に生活したこと等が、人物を見つめる能力を磨き、天賦の文才と合わさり、人物に対する細微な表現力につながったのだろう。
ちなみに鷗外の文体は漢文の影響もあり、簡潔なので、人物表現力があるといっても冗長的にならないのが良い。

語られぬ部分があまりにも多い彼の小説は、ちょっと読んだだけでは味があまりに淡泊過ぎ、今日の読者を堪能させるまでには至らない。
あるものは、一見すれば単なる一挿話か素描のようにさえ見える。
読者の側の洞察が働いてはじめて、登場人物の人間性の深奥にまで迫ることができるのである。


東洋文化と西洋文化


日本の近代史を語る上で、当時の知識人が急激な近代化の中で如何に葛藤し、どのような立ち位置を取ったのか関心があるところ。
鷗外は、その観点でとてもユニークな立ち位置にあったことが分かる。
そして、鷗外の考え方は、現代のこの時期にも、活かされるべきであるし、学ぶべきところがあると思っている。(それが、自分自身、鷗外作品を読むモチベーションのひとつになっている)

西欧の思想に対したとき、鷗外は漱石よりも受容的であった。
西洋的な死への恐怖は、あるいは彼の受容するところではなかったもしれない。しかし、鷗外は、西洋人が死に対して抱く恐怖心を罵らなかった。あるいは東洋的死生観と対比して、ことさらに西洋を斥けることもしなかった。
洋行帰りのおおかたの日本人とは違って、鷗外は無批判に西洋の実物を礼讃するようなことはなかった。が、漱石とは違って、西洋人や西洋の風俗をとりわけて呪うようなこともしなかったのである。

鷗外と同時代の作家で、日本の安っぽい西洋模倣を批判し、日本人が旧来の美風を捨てるに急なのを嘆いた人は実に多い。
だが鷗外は、そのような類型的な批判勢力の仲間には入らなかった。すでに手擦れのした批判を、彼はほとんど書いていない。
鷗外が日本人を批判したのは、過去の何を棄てて何を保つべきかを正確に判断するに必要な、実験的、実証的な精神の欠如であった。

鷗外は「東」を信じたが、同時に「西」も信じた。その両者は、彼の内部で相せめぎあうこともなく、どちらかへの鷗外の態度決定を二者択一に競いあいもしなかった。

欧米人が日本人に対して抱いていた人種的偏見のような、日本人にとってきわめて不愉快な問題を論じる場合にも、鷗外は必ず西欧の美点をあげ、非常にバランスのとれた議論を展開している。

以上

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