「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んだ。

私の人生設計の中に、「親になる」というイベントは今のところ予定されていない。

理由はいろいろあるけどそれは置いておいて、そんな私が幡野広志さんの「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んだ。

私がほしかった親とはどんな親だろう?と考えてみたけど、どうしても「こんな親」という像が見えてこない。

この本の中で、ガンの進行で足が痛むために障碍者用の駐車場に駐車したら怒られたというエピソードが出てくる。34歳と若く傍目にはガンを患っているとわからないために、「健康なのに障碍者用スペースを使うな!」と指摘されたという。後日、障碍者用スペースにカラーコーンまで置いてあったとか。

怒った人、カラーコーンを置いた(おそらくその店の)人、どちらも善意だと思う。本当に困っている人が使えなくなってはいけないという正義感。多分ね。

本当に困っている人を見分ける方法ってあるのだろうか。

この部分を読んでいたとき、小学校の体育の授業で鼻血が出たときのことを思い出した。

私は小さい頃からよく鼻血が出る。顔に手やボールがぶつかったりしたときもそうだし、お風呂上りだったり、ひどいときは立ち上がっただけでも出る時がある。鼻血がよく出る人あるあるかもしれないが鼻の血管が切れる感覚がわかるので血が流れ出る前に上を向くことができる。
その体育の授業でも、確か走り出すときだったか力を込めた拍子に鼻血が出る感覚があって上を向いた。
上を向いたまま鼻を手で押さえ先生の元へ行って「鼻血が出ました」と言った。先生は「見せてみ」と言って手を避けると、血で汚れていない私の顔を見て「出てないやん」と言った。口の中を血の味でいっぱいにしながら「でも出てるんです」と訴えたら、先生は「じゃあそこで座ってなさい」と壁を指した。

救急箱のティッシュを出してくれないことで、私が嘘をついて休もうとしていると考えていることに気づいた。これが当時の私にはすごく悲しかった。本当のことを言っているのに嘘つきだと思われるとは考えてもみなかった。小学生の私にとって大人は、特に先生は、正しいことを見分けられる人だと思っていたからなおのこと。

続けざまに、親に仮病を疑われたことも思い出した。熱はないが体がだるく関節が痛いから横になっているときに頼まれごとを断ると、「そうやって嫌なことから逃げてばかり」とあきれられた。後日、高熱が出て無菌性髄膜炎で1か月半入院した。ざまあみろと思ってしまった。本当のことがわからないなんて頭が悪い親だな、などと軽蔑すらした。私は嘘なんてついていない。それを証明するためには、どこか壊れてみないとダメなのか。そういう諦観は歳を重ねるにつれ頻出する。「思ったより元気そうだね」という言葉に悲しくなる。

大人は正しくない。子どもにとって、親や先生は「ついていけば間違いない道しるべ」になることが理想だと思うし幼い私はそう思っていたけど、実際それは難しい。大人になってしまった私にもそれができる気はしない。どうしてもどこかでちょっとずつ間違えてしまう。
でも本当のことだけは逃したくないといつも思っている。大人に信じてもらえなかった経験があるからよりいっそう強く思う。

私がほしかった親の像はわからないけど、本当のことを逃さない大人でありたい。
信じるに足る確証がないことだってある。人と話していても、本当かな?と疑問に思うことがよくある。それでも、本当かもしれないなら、疑わずにティッシュを差し出せる人でいたい。


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