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スイス•フランス3泊5日?! 後編

3泊5日の弾丸スイス・フランス旅行(お仕事だけど)は、日程の3分の2を終えていよいよ、この渡仏のメインイベントである「Matsuri Expo」に向かうこととなった。

フランスのエクス・レ・バンという街は、アヌシーから車で30分ほど。
私はJapan is styleのヨウコさんの車の助手席で彼女のワイルドな運転に揺られながら、過ぎゆく景色を眺めていた。
山や緑が多く、いわゆる田舎町。その辺りにお住まいだというヨウコさんのお子さんが通っている学校も、生徒数が少ないのだそう。

Matsuri Expoが行われたカジノ施設

「Matsuri Expo」が行われていたのはエクス・レ・バンのカジノ施設がある建物で、街の象徴的な建造物だ。
広さはそこまで広くないものの、日本の食や文化にまつわる様々なブースが出展していて、来場者も多く賑わっていた。
習字、生け花、たこ焼き、お好み焼き、折り紙、あめ細工に、ゲームセンターで見かける「太鼓の達人」もあり、子どもたちが列をなしていた。

DESIGN SETTA SANGOが出展するのはアヌシーでお世話になっているJapan is styleのブース内。ブース内には雪駄のほかに、日本製の傘や扇子などが並んでいる。

予想来場者数を遥かに超える人手だったそう

来場者の年齢層は幅広く、また男女ともに多く、ご家族連れで来られる方が多くみられた。
日本文化に触れたい、興味のある人が来場されているとあって、雪駄にも関心を寄せて下さる方がほとんど。
触ったり、試着したりと「Japanese sandals」を身近に感じてもらう事ができた。

2017年と2018年にイタリアのミラノサローネに出展した時には、試着してくれるのは20代30代がほとんどだった。40代50代になると「裸足になるのが恥ずかしい」「人前でつま先をさらすのは抵抗がある」という人が多かった。
私の中では「ヨーロッパの女性は年齢が上がると裸足が恥ずかしいと感じる」という現地での実感が刷り込まれていたのだが、今回はその実感を覆された。

雪駄を見て、触って、身近に感じてもらう

白髪美しいマダムが躊躇いなく靴下を脱いで試し履きをしてくださる場面が何度も見られ、私がカメラを構えるとポーズも取って下さる。嬉しい。
イタリアとフランスの違いなのか、2018年と2023年の違いなのか、単純に「たまたま」なのか、オンライン上では気づけないお客様からの反応が得られるのは、遠くフランスまで来た甲斐があったというもの。日本にいたままでは更新されなかった有益な情報だ。

こちらのマダムはこのままご購入くださいました
試し履きに楽しそうな笑顔
だいぶ長い時間悩まれてましたがまた検討します、との事

またイベント中は在リヨン領事事務所の倉富健治所長ともお話させて頂くタイミングがあり、三郷町の雪駄づくりについて沢山PRできた。リヨンと三郷町を雪駄で繋ぐことができれば、最高である。

在リヨン領事事務所の倉富所長と

余談だが、私たちのブースのお隣では日本の漫画をフランス語訳したコミックが販売されていた。そこのおじさんと仲良くなって、一緒に写真を撮ったのもいい思い出である。

おじちゃんは気さくに何かと喋ってくれた

一人で旅するメリットのひとつに「現地の人と仲良くなれる」という点があげられる。日本人何人かで訪れると、自分たちの輪の中だけで会話してしまうので、現地の人と親密になる機会を逃してしまいがちである。

15時ころにはアヌシーに帰って自由時間を過ごすつもりだったのが、ついつい接客に熱が入り、結局イベントが終了する18時まで「Matsuri Expo」に立ち続けた私は、Japan is styleの皆さんと共に電車でアヌシーに戻ってきたのが20時ころだった。
Japan is styleのNayaさんが「一杯飲んでいかない?」と誘って下さり(Nayaさんは女性ですよ)、2人でオシャレなバーに行くことに。

まず店に入るとこのカッコいいカウンターが目に入る

Nayaさんの行きつけであるバーにはイケメンのバーテンダーが3~4人ほど。その内の1名がNayaさんと親しいようで、店に入ると和やかに迎え入れてくれた。
和やか、とは。
つまり軽いハグと頬と頬を近づけてチュッチュと鳴らす、映画の中でしか見たことのない挨拶である。そしてその流れでそのまま私も彼とハグ&ほっぺちゅっちゅを生まれて初めて体験したのだ。貴重な経験をメルシー。

大人の空間にビビる39歳ジャパニーズ

緑茶入りの爽やかで美味しいビールと軽いおつまみ。疲れが吹き飛ぶ美味しさである。
日本でも滅多に友人と飲みに行く事が無い私が、フランスのアヌシーのオシャレなバーでビール飲んでいるなんて、自分が一番予想外なのだ。

Nayaさんとは日本製品をフランスで販売することについてや、日本の私たちのお店の話や、色んな話をして1時間ほど過ごし、店を出た。

帰国後もオンラインでリモート打ち合わせをしたのだが、その時に彼女は「ジュンさんは日本人じゃないみたい。アクティブに話す人だね。」と言っていた。

さて、バーを出た私はひとり、そのまま宿に帰るのが惜しくなった。
ふらふらと歩いて近場のカフェでカプチーノを購入し、小雨を避けながら10時前に部屋に戻ったのだった。
明日には日本に帰るのだなと思うと、眠りにつくのがもったいない夜だった。

宿とアヌシー湖の間にあった美味しいパン屋さん

翌朝8時のチェックアウトを前に、アヌシー湖の周辺を最後の朝散歩。
目をつけていたパン屋に立ち寄って、お土産用のバゲットを買った。厳重に包んでスーツケースに入れて持って帰って、日本のスタッフに食べてもらおう。
チャックアウトの方法は、今回、ホスト(部屋を貸してくれているオーナー)が8時に部屋まで来てくれて、双方立会いの下チェックアウトするというものだった。

8時に部屋の電話が鳴った。
ホストが到着したのかと思い受話器を取ると「申し訳ないけど、遅れる。OK?」という電話だった。え、今8時ですけど。。。

私は宿から歩いて10分ほどの場所にあるバス停にて8:40出発のバスに乗って空港に向かう予定だった。
「どれくらい遅れるの?」
「20分くらい」
8:20にチェックアウトして8:30にバス停着いて8:40のバスに乗る。
慣れた土地なら問題ないのだが、ここはフランスで、私はそのバスに乗らないと日本に帰る飛行機に乗り損ねる可能性があるのだ。

なかなかヒリヒリする展開ではあったが、ホストの女性は走って来てくれたようで、息荒くとても申し訳なさそうに8:20ぴったりに現れた。
私は無事に自分のバスに乗り込むことができたのである。

バスはフランスのアヌシーから、スイスのジュネーブに向かうものだ。
日本で事前に予約していて、昨夜のうちに席番号が「15D」に決まったというメールも来ていた。
バスに乗り込んだ私は「15D」を探すも、そもそもそのバスは13列しかなく、15列目が存在しないのでもちろん「15D」という席も存在していなかった。

なるほど。どうやら自由席だな。OK、OK。これが海外流だ。
適当に空いている席に着き、バスは私を乗せてフランスに別れを告げた。


最初にスイスに到着したチューリッヒはドイツ語圏だったが、ジュネーブはフランス語圏だった。飛行機の時間まで少し余裕があったので、空港近くのカフェに入ったのだが「ボンジュール」と挨拶されて気づいた。

ジュネーブ空港から歩いて15分程にあるカフェ

そのカフェがとても良いお店だった。
豊かな白髪の60代くらいの女性と、黒髪ロングの20代くらいの女性二人スタッフ。沢山のスイーツが並び、エスプレッソマシンも立派なサイズで、店内も清潔。
特に私はその白髪のマダムにくぎ付けになった。
テキパキとした身のこなしと、常連さんと思われるマダム達と弾む会話。

未来の私のようにも見えた。
まだ見ぬ自分の未来の選択肢のひとつにも見えた。

とにかくこの景色を忘れないように、思い切って彼女に話しかけて写真を撮らせてもらった。突然知らない人に写真撮らせてくださいって言われるのはきっと気持ち悪いよなと思ったものの、今こそ旅の恥はかき捨てる瞬間だと自分を奮い立たせた。

写真で見ると若く見える。イキイキしてらっしゃる。

幸いなことに私のビジュアルというのは、悪いことしなさそうな善良なジャパニーズガールそのものらしい。実際はガールじゃなくて、マダムど真ん中なのだが。

私は満ち足りた思いで空港に戻り、そして、スイスを旅立った。


ジュネーブからドバイへ向かう飛行機は、私の人生で一番空いている飛行機だった。
3つ並びのシートには自分ひとり。足も伸ばし放題だし、トイレに立つにも気を使わなくて済んだ。6時間、ポップコーンとオレンジジュースと映画2本。美味しい機内食も食べて、快適そのものだった。
ドバイに着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。

夜を追いかける航路。

体内時計はめちゃくちゃなまま、3時間ドバイ空港で乗り継ぎを待った。
どうしても醤油の味が恋しくて広い広い空港を捜し歩いたけど、日本食は見つからなかった。この際ベトナムのフォーでもいいからと思ったけれど、見つけられたのは油ギトギトでボリューム満点の中華焼きそばだったので、諦めた。

ドバイから関西国際空港へ向かう飛行機は満席で、その半分以上日本人の乗客だった。
乗客の姿を見て、ああ旅が終わったのだなと実感した。

19時間のフライト。日本に到着するのは夕方5時の予定だから、あまり睡眠はとらない方がいい。往きのフライトで読んだ小説の続きを読み、映画を観て、お腹空いていないのに運ばれてくる機内食を食べ、時々うたた寝をして過ごした。
じっと同じ席に座ったまま運ばれてくる機内食をみんなで食べているとなんだか、養鶏場のニワトリになったような気分になる。

どんな街の上を飛んでいるのか想いを馳せる

夜を追いかけ朝に追いつき、降り立ったことのない国の上を通過して、砂漠も湖も超えて、そして日本に帰ってきた。
家族とお店と湿度のある日本に。

関空に迎えに来てくれたマスターと2人で奈良に帰る。娘の顔を見る。晩ご飯にお蕎麦を食べて、お土産を広げて、自分の布団に入ると重い体は一瞬で眠りにつくことができた。


私が初めて一人旅をしたのは、15歳の頃だった。京都市内の自宅から、日本海が見える舞鶴市の祖父母の家まで。電車じゃなくて汽車と呼びたくなるしなびた車両で、どんより曇り空を車窓から眺め、ウォークマンのイヤホンからは山崎まさよしが流れていた。
そこから今まで国内外、何度も一人旅を繰り返してきたのだが今回のスイス・フランスの旅が最も不安で憂鬱だった。
仕事が絡んでいるので失敗できないという思いもあったが、明らかに年を取ったからだと思う。
若いころの無鉄砲な前向き思考は、年を取ると失われていくのだと知った。

しかしながら、こうして無事に帰国した今「楽しかった!もう一回行きたい!」と感じている。
失われた無鉄砲は、積み上げた経験で補うことが出来るのだ。
そして積み上げた経験は確実に、無鉄砲な自信よりも成果を生むことが出来る。
幼い子どもと同じように、成功体験が快感となって私を突き動かす「自分にしかできない」へと。

フランスを離れる日の朝陽。

「自分にしかできない」ことにスカイダイビングする勇気と同じ領域に存在するのが、
「あの人にできるのだから、自分にできるはず」だ。

私のように、特に英語に秀でている訳でもなく、特殊な能力や特技のない40歳にできることが、この文章を読んでくれている貴方にできないはず無いのです。

私は「こんなに勇気のいる一人旅は自分にしかできない」という使命感に燃えて実行したけれど、本当の本当は、私にできることは誰にでも出来るようなことなのです。
出来ないと思い込んでいるだけなのです。
私が本当の意味で私にしかできない事とは。
可愛い娘たちの母親であることくらいです。もしくは京都で暮らす両親の愛娘でいることも私にしかできません。
しかし、それ以外のことは、私でなくても出来るのです。

自分の存在の軸の置き場所は、自分の内側にあった方が揺るがない。
地位や名誉やお金も。目に見える部分は、替えが効く。
だから見えない部分を大切にしないといけない。
皆様から「すごいね!」言われる今のタイミングこそ、私は「いえいえ、私でなくても出来ますよ」と伝えたい。

さぁ、明日は何に飛び込もうか。

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