アンフィニッシュト 33-1
前方にいる田丸がメンバーに何事かを指示すると、小さな箱とお茶が配られ始めた。サンドイッチのようだ。
その箱を受け取った乗客は、縛られたままの手で不自由そうにサンドイッチを頰張っている。
それを見ていると、琢磨もこれまで全く感じなかった空腹を強く感じた。
やがて琢磨と岡田にもサンドイッチが配られ、鳴り始めた腹を落ち着かせることができた。
岡田は「やれやれ」といった様子で、もぐもぐと咀嚼(そしゃく)している。その様子は少年のようで、とても二十歳には見えない。
――だが、油断するわけにはいかない。
噂によると、岡田は高校に入ると、すぐに大阪の共産党系政治団体の許に出入りし、下働きをしていたらしい。
――つまり筋金入りのコミュニストってわけか。
ある意味、ロマンチストの田丸や、インテリが過ぎる大西、また粗暴な中田よりも、気を付けねばならない相手である。
――もしかすると、田丸は俺を監視させるために岡田と組ませたのかもしれない。
そんな疑念も抱いたが、もしも琢磨の正体が疑われているのなら、赤城がハイジャッカーに指名するわけもない上、それを田丸に耳打ちしようものなら、メンバーに加われるはずがない。
「どうしましたか」
サンドイッチを頰張ったまま、岡田が首をかしげる。
「いや、君がそれを食べる様子が可笑しくてね」
「子供っぽいですか」
「まあ、そうだな。気を悪くしないでくれ」
「分かっていますよ。僕は背も低いし、童顔なので、中学生に間違われることもあるぐらいですから」
岡田が笑みを浮かべる。
だが、その言葉を額面通りには受け取れない。
――こいつは擬態する昆虫と同じだ。子供っぽさを隠れ蓑(みの)にしている。
おそらくこれまでの人生で、岡田はそうすることで他人から信用され、可愛がられてきたのだ。
「まあ、ここまで来たら肚を決めるしかないですね」
「そういうことだ」
どうやらさど号は、朝鮮半島の東海岸沖を北上しているらしい。左手遠方に海岸線が見える。だが緑溢(あふ)れる日本と違い、砂漠のように無味乾燥な風景が続いている。
――朝鮮半島には森林がないのか。
むろん内陸部の高地にはあるのだろうが、沿岸部は全くと言っていいほど不毛の地に見える。そんな朝鮮半島の風景を見ていると、たとえようもない不安がわいてくる。
――ここは日本ではないのだ。
初めて母親と離された幼児の気分とは、こういうものではないかと、琢磨は思った。
しばらくすると、さど号は西に旋回したらしい。陸地が近づいてきたので、それが分かる。やがて眼下は、すべて陸地となった。おそらく、韓国の領空を非武装地帯沿いに西に飛んでいるのだろう。
その時、目の端で何かが光った。乗客の間から、どよめきが起こる。
――北朝鮮の戦闘機か。
迷彩色が施されているだけで、何のマークもない戦闘機が、さど号の右翼をかすめて飛び去っていった。謎の旅客機が領空内に入ってきたので、スクランブルを掛けたに違いない。
しばらく並行に飛んでいた戦闘機は、何かの合図を送るように翼を翻すと、視野から消えていった。
やがてさど号は、下降を始めた。
戦闘機から何らかの指示があったに違いない。
――まさか、本当に平壌に降りるのか。
琢磨は、緊張で胸が締め付けられそうになった。
八
午後三時十八分、さど号が平壌空港に着陸した。福岡からは二時間二十分の飛行だった。
前方では、田丸たちが肩を叩き合って喜んでいる。「やったな」「やったぞ」という声も聞こえてくる。中央にいる青木たちも、武器を掲げてそれに応える。柴本は緊張が解けのだろう。その場に座り込んでしまった。
前方にいる面々が、後方を守る琢磨と岡田に手を振ってきた。
二人もそれに笑顔で応える。
満面の笑みを浮かべた田丸が、アナウンス用の電話機を手にした。
「えー、皆様のご協力もあり、おかげさまで平壌に着きました。皆さんは、こちらにいったんとどめ置かれることになりますが、一、二週間から一月で日本に送還されることと思います。ありがとうございました。これはせめてもの感謝の気持ちですが、ご清聴いただければ幸いです」
そう言うと田丸は、浪曲のような何かをを吟じ始めた。
鞭声粛々(べんせい・しゅくしゅく) 夜河を過(わた)る
暁に見る千兵の 大牙(たいが)を擁するを
遺恨(いこん)なり十年 一剣を磨き
流星光底(りゅうせいこうてい) 長蛇(ちょうだ)を逸(いっ)す
田丸は左翼というより右翼的なメンタリティの持ち主で、憂国の情から学生運動に身を投じたと赤城から聞いたことを、琢磨は思い出した。
吟じ終わった田丸が深々と一礼すると、万雷の拍手が起こった。皆、手首を縛られているので不自由そうだが、それでも、この事件が終幕に近づいたという安堵感と相まって、拍手をしたいという気持ちは分かる。
「ぼく、この詩を知っていますよ」
岡田が唐突に言う。
「これは頼山陽(らいさんよう)の『川中島』という漢詩です。川中島合戦の折の上杉謙信の気持ちを、江戸時代の末に頼山陽が想像して作ったものなんです」
岡田によると、「馬鞭(ばべん)の音もたてないように夜、川を渡った。夜明けとなり、武田軍は大旗はためく上杉軍の姿を見た。ここ十年、遺恨から剣を磨き、信玄の首を取ることを念じてきたが、流星のように打ち下ろされた剣は、わずかのところでかわされ、信玄を逃してしまった」という意味だという。
「田丸さんは新潟県の出身なので、上杉謙信が好きなのでしょうね」
「そういえばそうだな」
歴史に疎い琢磨には、川中島も上杉謙信も教科書で習ったぐらいで、さしたる知識はない。
「でも、おかしいですね。これは、宿願(しゅくがん)を遂げられなかった無念の歌なんですよ」
「そうなのか」
「少なくとも、縁起のいい歌ではないですね」
田丸が、それを意識していたかどうかは分からない。だが「無念の歌」が、自分たちの将来を暗示しているような気がしてならない。
「君は歴史が好きなんだな」
雑談のついでに、琢磨が何気なく問う。
「ええ、まあ。子供の頃、漫画で日本史を貪(むさぼ)るように読んだので、気づいたら詳しくなっていました」
岡田が照れたように笑う。
――歴史好きが左翼になるのか。
何気ない会話だったが、琢磨は岡田の別の一面を見る思いがした。
岡田もそれに気づいたのか、そこまでで口をつぐんだ。
続いて田丸は、前方にいるメンバーに何かを指示した。それによってメンバーの何人かが乗客を縛っていたロープを解きに掛かり、また別のメンバーは、武器や爆弾をしまうなどして降りる支度を始めた。
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