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アンフィニッシュト 48-1

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

次の瞬間、「バリバリバリ」という音がした。
「伏せろ。機銃掃射だ!」
 岡田の声で、琢磨が反射的に身を伏せる。
 岡田は蛇行を繰り返すことで銃弾を避け、何とか相手との距離を取ろうとしている。だが、北朝鮮の海上警備艇を振り切ることはできない。
 その時、琢磨は傍らに置いてあった小銃に気づいた。
 軍事訓練で習った通りに、琢磨はそれを構えると海上警備艇に向けて引き金を引いた。
 銃弾が警備艇の胴を撃ち抜く。それで警戒したのか、右後方から迫ってきた一艇は、少し速度を落とした。だが左後方の警備艇は、ひるむことなく銃弾を浴びせてくる。
 斉射音と同時に船室の窓が割れる。反射的に琢磨は伏せたが、隣から「あっ!」という声が聞こえた。
「どうした!」
 その時、琢磨は岡田の肩が真っ赤に染まっているのに気づいた。
「岡田君、撃たれたのか」
「どうやら、そのようだ」
「操縦を代わろう。手当てをしろ」
「そんな暇はない」
 岡田は巧みな操船で警備艇を振り切り、米軍の巡視艇に近づいていく。だが巡視艇は、すぐそこにいるように感じられるが、実際はかなり離れている。
「とにかく止血しよう」
 琢磨は軍服のベルトを外すと、岡田の肩を固く縛った。
 その時、再び機銃の掃射音が響いた。
「心配要らん。君は伏せていろ!」
 岡田の声に気圧されて琢磨が身を伏せる。
 ——相手も必死なのだ。
 このまま琢磨たちを逃がしてしまえば、北朝鮮の海警局は大失態である。
 岡田は背後を振り返りつつ、巧みに操船している。だが相手は二艘なので、片方を気にしているうちに、もう片方が接近してくる。
 二艘から放たれる機銃の掃射音が耳をつんざく。もはや狙いを定める余裕さえなく、闇雲に撃ってきているのだ。
 琢磨の頭上を銃弾がかすめていく。
 ——このままでは岡田がやられる。
「岡田君、もういいから伏せろ」
「馬鹿言うな。もう一息だ!」
 確かに、米軍の巡視艇は目前に迫っている。
 ——何とか逃げ切ってくれ。
 琢磨は、祈るような気持ちで岡田の後姿を見つめた。
 その時、片方の警備艇が覚悟を決めたかのように迫ってきた。琢磨は慌てて小銃を撃とうとするが、弾が出ない。
 ——弾切れか。
 予備の銃弾を探す暇はない。
 小銃の応戦がないと気づいた警備艇は、琢磨たちの艇に横付けするように近づくと、銃弾を雨のように降らせてきた。
 琢磨は甲板を転がって逆舷に逃れた。だが次の瞬間、岡田の声が聞こえた。
「あっ、うぐっ」
 岡田が片膝をつく。それでも岡田は、操舵輪にすがるようにして立ち上がった。
「岡田君、どうした!」
 太ももの裏が見る間に朱に染まる。動脈を撃たれたに違いない。
「俺のことは心配するな。自分の身を守ることだけ考えていろ!」
 近づこうとする琢磨を岡田が叱責する。
 遂に二艘が、左右から琢磨たちの艇を挟み込んだ。
 ——もうだめだ。
 飛沫で濡れ鼠になりながら、琢磨は死を覚悟した。
 その時、米軍の巡視艇から大きな音が聞こえた。
 見ると主砲から煙が上がっている。
 ——威嚇射撃だ。
 北朝鮮の警備艇もそれに気づいたのか、慌てて舵を切る。
 次の瞬間、凄まじい音が轟くと、後方で水柱(すいちゅう)が立った。
 それでも岡田は米軍の巡視艇に向かっていく。
 米軍の威嚇射撃は、琢磨たちの艇にも向けられているに違いない。
 ——一か八かだ。
 次の一弾は命中するかもしれない。だが、ほかに選択肢はないのだ。
 振り向くと、追跡してきた二艘との間に距離ができていた。彼らは米軍の砲撃に腰が引けたのだ。
 米国の巡視艇が目前に迫ってきた。
 一方、二艘の警備艇は、これ以上の追跡をあきらめたのか、左右に分かれて反転していく。
「岡田君、やったぞ!」
 琢磨が歓喜の声を上げたが、岡田は操舵輪に突っ伏したままだ。
「岡田君!」
 慌てて琢磨が操舵を代わると、岡田はその場にくずおれた。
すでに米国の巡視艇は、眼前に山のようにそびえている。
「俺たちはやったんだ。遂に逃げ切ったぞ!」
 琢磨は操舵輪を握り、巡視艇の手前まで来ると、速度を落としてエンジンを切った。
 米国船から端艇が下ろされようとしている。
「岡田君、しっかりしろ!」
 琢磨が岡田の首を支える。
「中野、いや三橋君、か」
「今、助けが来る。あと少しの辛抱だ」
「俺はもう駄目かもしれん」
「何を言っているんだ!」
「妻と子の顔が目に浮かぶ」
 岡田は琢磨の顔を見ているようで、別の何かを見ていた。
「俺の骨を日本に持ち帰ってくれるな」
「あきらめるな。しっかりしろ!」
「警察には渡さず、故郷の墓に入れてくれ」
 岡田がわずかに微笑む。
「何を言うんだ。もう俺たちは助かったんだぞ!」
 岡田は何も答えず目を閉じていた。
「君の名は何というんだ。どこの生まれだ。それが分からないと、骨を故郷に持っていけないじゃないか!」
 岡田は意識を失ったのか、首をがっくりと落とし、琢磨の腕から滑り落ちていった。
「死ぬな。死なないでくれ!」
 琢磨が嗚咽を漏らす。
「ここまで来られたんじゃないか。一緒に日本に帰ろう」
 その時である。背後で声がした。
「Don’t Move!」
 顔を上げると、銃を構えた白人の兵士が数人立っていた。琢磨たちが、北朝鮮の軍服を着ているので警戒しているのだ。
 どうやら米兵は、琢磨と岡田のことを亡命者と思っているらしい。一人が素早く小銃を遠くに蹴ると、二人の兵に両肩を摑まれ、立たされた。
 米兵は何かを言っているが、琢磨には分からない。
琢磨は両手を上げようとしたが、背後に回されて手錠をはめられた。
 一方、一人の兵士が岡田の様子を見て、首を左右に振った。
 ——死んだのか。
 琢磨が岡田の様子を見ようとすると、目の前に立ちはだかった下士官らしき一人が問うてきた。
「Who are You?」
「I’m a Japanese」
顔を見合わせた後、下士官がもう一度問うてきた。
「Who are You?」
「俺は日本人だ。俺は日本人なんだ!」
 琢磨の絶叫が海にこだました。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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