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掌編『夢路はかなき』 【歴史奉行通信】第七十六号


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こんばんは。伊東潤です。
今週も歴史奉行通信をお届けします。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめに

2. 掌編『夢路はかなき』

3. 『夢路はかなき』本編解説

4. Q&Aコーナー / 感想のお願い

5. お知らせ奉行通信
新刊情報 / オンラインイベント情報 / その他


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1. はじめに

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最近は執筆以外の仕事が減ったので、
引きこもり状態です(笑)。


たまに気分転換でデニーズに行って仕事をするのですが、
やはりコロナウイルスが恐ろしく、
幾度も手を消毒したりして落ち着かないので、家で仕事をするようになりました。


以前は家よりデニーズの方が集中できたので、毎日のように行っていたのですが、
今は家でも集中して仕事ができるようになりました。
これがコロナ禍によるライフスタイルの変化ですね。


さて今回は、北國新聞の土曜小説のコーナーに2020年9月26日の朝刊に掲載された掌編
『夢路はかなき』を掲載いたします。
この作品は、織田信長の家臣の一人として有名な柴田勝家を主人公に据えたものです。


皆さんは柴田勝家にどのようなイメージをお持ちですか。
おそらく「豪放磊落で不器用な武辺者」といったものではないでしょうか。
それも間違ってはいないのですが、彼には暗い過去がありました。
それが彼の人生を規定し、後世に伝わるような
「戦国武士の典型」のような生きざまにつながっていったのではないかと思います。
その心中を描いたのが、この掌編です。


さて3,500字前後で、どこまでできるか。
本編終了後の解説も含めて『夢路はかなき』をお楽しみ下さい。

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2. 掌編『夢路はかなき』

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「夏の夜の夢路はかなきあとの名を 
雲井にあげよ山郭公(やまほととぎす)」
(夏の夜の夢のようにはかない私の名を、
空高くまで伝えてくれよ、山ほととぎす)


――これでよい。

越前北庄(きたのしょう)城の自室で、
辞世の歌の出来に満足した柴田勝家が筆を擱(お)いた。

――事ここに至れば、武人として見事な最期を遂げ、いかに後世にまで名を残すかだけだ。


その時、「ご無礼仕ります」と言って入ってきたのは、勝家の室のお市の方だった。
「宿老の皆様が大広間にお集まりです」
「宴の支度は整っておるのだな」
「はい。今生最期の宴ですので、山海の珍味に美酒を用意いたしております」
お市の方が袖で目頭を押さえる。

「そなたには、辛い思いばかりをさせてしまった。わしの許になど嫁がなければ、こんな目に遭わずに済んだものを」
「何を仰せですか。あなた様のような見事な武人に嫁げ、これ以上の果報はありません」

――見事な武人、か。

勝家は、お市の言葉がうれしかった。
だが同時に、一抹の後ろめたさも湧いてくる。

「すまぬな。で、そなたも宴の座に来るか」
「いいえ。支度を整え、天守でお待ち申し上げております」
その支度が意味するところを、勝家は知っていた。

「やはり翻意せぬのだな」
「はい。かつて小谷(おだに)城が落ちた時、
前夫の浅井長政(あざい・ながまさ)から懇々と諭され、
私は羽柴様の陣に降りました。
あの時は三人の娘が小さく、
その行く末を見届けたいという思いから、
降伏の恥辱を甘受しました。
しかし今は三人の娘も育ち、心残りはありません」

浅井長政とお市の間にできた茶々、初、江(ごう)という三人の娘は、すでに羽柴秀吉の許に送り届けられていた。

「そなたの前夫は堂々たる武人だった」
「仰せの通りです。しかしあなた様には敵いません」
その言葉が重石のようにのしかかってくる。

「殺生を重ねてきたわしが行くのは、地獄への道だ。それでも道連れになってくれるのだな」
「地獄などとは――。一点の曇りなき道を歩んできた旦那様は、必ずや仏の許に召されます」
「わしのような者でも、仏の許に召されると言うのか」
「はい。必ずや」
勝家は、血に彩られた己の過去を回想した。


今でも忘れられないのは、稲生(いのう)の戦いの後のことだ。
当時、織田弾正忠(だんじょうのじょう)家の次男信勝(信行)付きの宿老をしていた勝家は、
長男の信長を倒し、信勝を家督に就けようとした。
だが信長は見事な駆け引きで劣勢を覆し、信勝勢を撃破した。


この時、勝家は、信長の底知れぬ力を知った。
それゆえ信勝が二度目の謀反を企てた時、
それを信長に密告した。
そのため信勝は殺された。


それ以降、勝家は主を売った者として、
家中の者たちから白い目で見られるようになった。


それゆえ勝家は、家中の誰よりも武士らしく生きようと思った。
ところが、なかなか活躍の場を与えられなかった。
それでも勝家は腐らなかった。
地道に与えられた仕事をこなし、
その真摯な姿勢を周囲にも認められるようになった。


永禄十一年(一五六八)、信長の上洛作戦の際、
勝家は四人の先手大将の一人に選ばれた。
異例の抜擢だった。
これに勇み立った勝家は無類の活躍を示し、
その後の畿内平定戦で、誰よりも武功を挙げた。
その甲斐あって、勝家は信長の宿老筆頭にまで上り詰めた。
それ以後も、勝家は愚直に自らの役割を果たしていった。


その努力は、北陸方面軍司令官への任命として結実した。
それに勇躍した勝家は怒濤の勢いで一向一揆勢力を駆逐し、
瞬く間に北陸全土を手中に収めた。
その頃、信長の天下取りも終盤戦に入っていた。
そんな折に起こったのが、本能寺の変だった。


本能寺の変の一報を聞いた時、勝家は激怒した。
これまで信長と共に歩んできた天下取りへの道が、
こんな形で覆されるとは思っていなかったからだ。


勝家は己を奮い立たせ、逆臣光秀を討つべく南下を開始した。
光秀を自らの手で討つことで、
忌まわしい過去を忘れられると思ったのだ。
だがその途次、秀吉が光秀を討ったという一報が届く。


その後の清須会議で、秀吉は仇を取った者として思うままに主張を通した。
そして秀吉との対立と軍事衝突が、
必然のようにして起こった。
賤ケ岳(しずがたけ)の戦いである。


――そして、わしは敗れた。

総崩れとなった味方勢を支える術もなく、
勝家は数騎の供回りだけで、
北庄城に逃げ帰ることしかできなかった。

――なんとも情けなきことよ。

心中、自嘲しながら勝家は立ち上がり、
宴の場に向かおうと、障子を開けて広縁に出た。
その時、外から鯨波(げいは)が聞こえ、
続いて豆を炒るような筒音が轟いた。

羽柴勢主力は、いまだ一里ほど遠方にいると聞いていたが、
おそらく先手(さきて)が城の近くまで迫ってきたのだろう。
やがて鯨波と筒音はやみ、元の静寂に戻った。


その時、「敵の先手が現れました!」と叫びながら、庭伝いに使番が走ってきた。

「そのようだな。して、旗印は何だった」
「白地に黒の梅鉢(うめばち)に候!」

――そうか。やはりあの男か。
勝家は「さもありなん」と思った。


勝家の腹心の佐久間盛政が、「中入り」を成功させた。
「中入り」とは敵の第一線陣地を置き去りにし、
第二線陣地を攻略する高度な戦術だ。
盛政は夜陰に紛れて余呉湖畔を回り込み、
羽柴方の大岩山砦を攻略した。
これを見た同じ尾根筋にある岩崎山砦と賤ケ岳砦は、自落を余儀なくされた。


前日、織田信孝の挙兵を聞いた秀吉は、
二万余の軍勢を引き連れ、信孝の本拠の岐阜に向かった。
それゆえ羽柴方の賤ケ岳防衛線の総兵力は二万五千となり、
柴田方二万との間に遜色はなくなった。


盛政は「この機を逃してはなりませぬ」と言って、勝家に「中入り」を進言した。
一か八かの賭けだったが、勝家はそれを許した。

――だが秀吉は必ず戻ってくる。

その日の夜半、物見が「北国街道に延々と続く松明の列が見えます」と伝えてきた。


案に相違せず、秀吉は戻ってきた。
大岩山砦にとどまっていた盛政は、
余呉湖畔に下りて撤退に移る。
ここまでは予想通りの展開だ。


敵方の堀秀政が守る東野山(とうのやま)砦の西麓に本陣を構えた勝家は、
次々と入る使番の報告を聞きつつ、秀吉が罠に掛かったことを確信した。

「佐久間様が川並(かわなみ)に入り、反転しました!」

川並集落は余呉湖畔の北西隅にあり、
湖畔にしては広いので決戦場には最適だった。
そこで佐久間隊は反転し、
羽柴勢と衝突する手はずとなっている。

「羽柴勢も川並に入ったか」
「入りました。双方は川並で激戦を展開中です」

――勝った!

叫び出したい衝動を抑え、勝家は配下に出陣の支度を命じた。


その時、緊張した面持ちの物見が陣幕をくぐってきた。

「茂山(しげやま)にいた前田隊が川並に突入せず、琵琶湖畔に下りていきました」
「何だと」

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