北条家臣団の強さの秘密 【歴史奉行通信】第九十四号
こんばんは。伊東潤です。
今夜も伊東潤メルマガ「歴史奉行通信」をお届けします。
〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓
1.はじめに
2. 北条家臣団の強さの秘密
ー適材適所で人材を登用した早雲
3. 北条家臣団の強さの秘密
ー「軍人」と「吏僚」に分化させていった氏康
4. 北条家臣団の強さの秘密
ー氏綱の遺言が象徴する人の使い方の要諦
5. Q&Aコーナー / 感想のお願い
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1.はじめに
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いよいよオリンピックも開会間近となり、ワクチン接種も佳境に入ってきました。
私も一回目を打ちましたが、二回目はまだです。夏休みはワクチンを打ってから取りたいですね。
さて、7月7日は何があったかご存じですか。
もったいをつけないで言いますが、小田原城が開城した日です。
厳密には5日に当主の北条氏直が敵陣に入り、7日は豊臣方の検使が入城した日になります。
そして11日に氏政と氏照が切腹し、21日に一命を救われた氏直が高野山に向けて小田原を後にします。
開城というのは受取役に城を明け渡した日となるので、7日になるわけです。
かくして関東に覇を唱えた北条氏は滅亡します。
しかし徒手空拳からスタートし、最盛期には関東の5分の3ほどを領有した(傘下国衆の領国を含む)北条氏の強さは、特筆すべきものがあります。
その理由はどこにあったのでしょうか。
今回は「北条家臣団の強さの秘密」を語ってほしいという歴史雑誌の要望に応えたインタビュー記事をお送りします。
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2. 北条家臣団の強さの秘密
ー適材適所で人材を登用した早雲
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■適材適所で人材を登用した早雲
北条五代は早雲(伊勢新九郎盛時)に始まり、氏綱、氏康、氏政と続いて氏直で終わる。中でも徒手空拳から戦国大名になり上がった早雲の業績が大きい。
何事もそうだが、ゼロを1にするのは最もたいへんなことだからだ。
初代の早雲が戦国大名として認知されたのは、明応七年(一四九八)の伊豆平定からだが、その頃は今川氏への軍事的依存度が高かった。
つまり軍隊をレンタルしていたのだ。しかし二年後の文亀元年(一五〇一)頃には、ほぼ単独で小田原城を奪取して関東への足がかりを摑む。
この間に独自の軍団の編成をしていたに違いない。
早雲は室町幕府の申次衆という「エリート」で、
細川政元が中心となって行った「明応二年の政変」に連動して東国を支配下に置くため駿河国に下向し、今川家を巻き込んだというのが最近の定説だが、
自前の軍勢を持たないため、当初は今川家の兵力を頼り、徐々に自立を果たすという珍しい方法で創業したことになる。
こうした経緯で成立した戦国大名は珍しく、天文六年(一五三七)に今川義元が北条氏に不満を抱いて「河東一乱」を起こすが、
このあたりに遠因があったのかもしれない。
さて、早雲に話を戻すが、「徒手空拳からスタートした」というのはマイナスのように思われがちだが、戦国時代に限ってはそうでもない。
逆に、徒手空拳が早雲の勢力拡大に貢献したとも考えられるのだ。
古くから特定の地域に根を張る大名や国人が能力第一主義を採ろうとすれば、能力がないのに禄を食む重代相恩の家臣たちのリストラが不可欠になる。
しかし、これは容易なことではない。
それぞれ土地と密接につながりがあり、リストラなどすれば、隣国と手を組んで反乱を起こされるかもしれないからだ。
その点、徒手空拳だった早雲は自由に人材をスカウトし、適材適所の人材配置ができた。
早雲は自ら堀越公方府や大森氏を滅亡に追い込むなどして、そこにいた有能な人材を家臣団に組み込むことで、人材難をクリアしていく。
その結果、家臣団構成はバラエティに富んだものになった。
早雲の家臣を分類すると、第一群は早雲の東下の頃から仕えていた人たちで、
「御由緒六家」と呼ばれる大道寺氏(後に山角氏が派生)、山中氏、荒川氏、多目氏、在竹(ありたけ)氏、荒木氏が該当する。
このうちで大道寺氏以外は、五代を経るに従い、有力家臣としての影が薄くなっていった。
その理由は様々だが、基本的には北条氏に実力主義が浸透していたと考えていいだろう。
なお最近の研究では、氏直の時代まで重臣家の一つだった笠原氏も、第一群とする見方が出ている。
第二群には、今川氏家臣から転入した人たちがいる。
氏綱の代には福島(くしま)氏などが入ってきて数が増えるが、早雲の時代は駿河国の駿東郡の地侍が主だったため数は少なく、
有力な家臣は葛山(かずらやま)氏のほかには見あたらない。
第三群は、京都からやってきた、ないしは招聘したとおぼしき人たちだ。
のちに筆頭家老の地位を占める松田氏は幕府の奉公衆だった。
また、早雲が正室をもらっている関係で小笠原氏が来ているし、早雲の出自に連なる伊勢氏から家臣に加わった者たちもいた。
第四群は伊豆の国人衆で、清水氏、狩野氏、垪和(はが)氏、板部岡氏、富永氏など、数は多い上に、五代を通じて子孫たちが活躍している。
第五群は旧堀越公方の家臣だ。
遠山氏、笠原氏、布施氏、大草氏、蔭山氏などがこれにあたるが、笠原氏は備中の土豪出身で、遠山氏は幕府奉公衆だったとする説もある。
第六群は、相模・武蔵両国(扇谷上杉領)に攻め入る過程で、扇谷上杉氏の家臣を臣従させた者たちが挙げられる。
時期的には氏綱の時代になるだろうが、津久井の内藤氏と武蔵の吉良氏が代表格だろう。
第七群は相模国の国人衆で、小田原周辺では松田氏、平塚の佐奈田氏、さらに三浦半島の水軍衆を取り込んでいる。
なお、今川氏のために遠江、三河へ遠征した際、早雲が三河の石巻氏を家臣化したといわれるが、これは珍しいケースになる。
早雲の人材スカウトで注目すべきは、幕府や堀越公方の能吏を引き抜いていることだ。
戦国大名の家臣というと、武将としての能力に重きを置かれがちだが、早雲の視野には「領国経営」が第一に入っていたのだろう。
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3. 北条家臣団の強さの秘密
ー「軍人」と「吏僚」に分化させていった氏康
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■「軍人」と「吏僚」に分化させていった氏康
本格的な関東進出が始まる二代・氏綱の時代において、家臣編制で大きかったのは、天文五年(一五三六)の「花蔵の乱」の影響だろう。
花蔵の乱とは今川氏輝の死後に生じた家督争いで、栴岳承芳(今川義元)が勝ち、重臣・福島氏の娘が産んだ玄広恵探が敗れた。
この内訌で敗者となり、居場所を失った家臣たちの多くを北条氏は迎え入れている。
その中で最も有名なのは「地黄八幡」の旗印で有名な福島綱成だろう。
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