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アンフィニッシュト 49-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

「おかしいな」
 寺島は何度も首をひねった。
 赤城に会っても事件解決の糸口を摑めなかったので、寺島は中野の親族に会おうとした。だが、いくら調べても戸籍がないのだ。
 昔のことなので、役所が紛失したか処分してしまったことも考えられるが、そんなことはれはめったにない。
 しかし、中野健作という人物が実在したことは間違いない。
 ——あんたは誰なんだ。
 戸籍が見つからない場合、次に探すのは住所に該当する学校の在籍記録だが、函館市内の小中学校をいくら探しても、中野健作という名の在籍者はいなかった。
 寺島は大学にも問い合わせたが、昔のことなので分からないという。それでも当時の状況を知りたいと思い、職員名簿を見せてほしいと申し出たところ、何とか了承してもらえた。
 雄志院大学に行き、当時の職員名簿を閲覧した寺島は、学生課や経理課に所属していた六人の足跡を追った。
 すでに男性三人は死去しており、一人は認知症を患ってホスピスにいるという。女性一人とは連絡が取れず、残る男性一人を当たったところ、ようやく話をしてもいいという返事をもらった。
 早速、その人物に会ったところ、「もう関係者は死んでいるので、構わないでしょう」と言いながら、当時の理事長の指示で、中野健作には授業料免除の処理をしていたと話してくれた。
 止まっていたリールが、再びゆっくりと動き始めた。
 理事長の名は堀越泰造(ほりこし・たいぞう)といい、当時の政界を牛耳っていた元外務大臣の堀越利三郎(りさぶろう)の弟だった。二人ともすでに死去しているが、利三郎の息子は、現政権で外交副大臣を務める堀越栄次郎(えいじろう)である。
 堀越一族は政財界に深く根を下ろし、戦後日本の保守政治を推進してきた。利三郎は七十歳少し過ぎで死去したため、総理大臣にはなれなかったものの、政界の黒幕として、長きにわたって隠然たる勢力を保っていた。
 ——ガチガチの保守が、なぜ学生運動家の授業料免除を認めたのだ。
 素朴な疑問がわく。
 だがその線は、そこから先には進められなかった。あまりに昔のことであり、証拠にも証人にも限りがあるからだ。
島田に報告したところ、まず戸籍や記録類以外で中野健作の素性を確かめろということになった。
 寺島は野崎と手分けして当時の関係者に会い、中野健作の故郷の函館にも行った。
 だが、手掛かりらしい手掛かりが全く摑めないのだ。
手を尽くして探しても、いっこうに中野健作の実像は見えてこない。
 ——あんたは、いったい何者なのだ。
 そんな時、学生運動関連の本を読んでいると、警察の公安課が、学生たちの間に捜査官を潜入させていたという記述に突き当たった。
 ——これだ!
 もはやそれ以外に、中野健作という実体のない男を説明する方法はなかった。
 ——待てよ。
 寺島は岡田金太郎と吉本武についても調べてみた。
 吉本武は学生運動の活動家だったので、すぐに実在が確認された。岡田金太郎も実在していたことは確かだが、戸籍上は生後二カ月で死亡していた。
金太郎の両親はすでに亡くなっていたが、幸いにして妹は生きていた。
 その妹という人の話を電話で聞くと、五歳の時、突然、兄と称する人物が現れ、両親から「実はお前には兄がいた」と告げられたという。それまで食うや食わずになるほど零落していた岡田家は、それ以後、生活の心配がなくなり、父親の事業も軌道に乗り始めたという。
 だが兄は、勤め先の寄宿舎に戻ると言って、すぐに家を出てしまったらしい。その後、兄からは音沙汰なく、その一件を忘れかけていたが、金太郎という名が妙に印象に残り、それだけは覚えていたという。
ところが突然、さど号事件の犯人の一人として岡田金太郎の名が挙がる。それで驚き、「兄ではないか」と両親に尋ねたが、両親は険しい顔をして、何も答えてくれなかったという。
 ——つまり何者かが、金太郎になりすましていたのだ。
 そこまでして、金太郎になりすました目的は何か。また、それが誰なのかは、全く分からない。
 ——もしかすると、二人のいずれかは、公安だったのかもしれない。いや、二人ともそうだったとも考えられる。それが北朝鮮政府にばれて粛清されたのか。
 吉本も含めた三人が消息不明になった経緯については、全くの五里霧中である。
 ——まさか脱出を図ったのではないか。
 中野が国内にいるという可能性がある限り、それは否定できない。
 ——しかも脱出は成功した。だが、岡田が帰国しているという痕跡はない。
 憶測は憶測を呼ぶ。
 ——だが中野は、どうやって入国したのだ。偽造パスポートを使って、うまくすり抜けたことも考えられるが、そんなリスクを冒すだろうか。
 入管で見つかれば逮捕される。公安だという正体をばらしたら、政府や警察の策謀が白日の下に晒される。政府としては、それを防ぐべく超法規的な方法を取ったのか。だが、そこまでしておいて中野を自由の身にするとは思えない。やはり、政府や警察が関与しない方法で入国したとしか考えられない。
 ——パスポートなしで入国する方法が、ほかにあるのか。
 そんなことができるのは、政府や警察以上の権力を握っている組織以外にない。
 ——米軍か。
 米軍関係者を装い、米軍機か艦船に乗って国内の基地に入ることはできる。
 ——だが米軍が何のために、そんなことをする。
 寺島は再び迷路に迷い込んでいた。
 寺島がここまでの捜査状況と自分の推測を捜査本部に話すと、皆、色めき立った。とくに大学授業料免除のことは、厳然たる事実であり、何らかの意思が働いていたとしか思えない。寺島が堀越栄次郎に会うことを要請すると、県警から捜査一課長まで出張ってきて検討し、承認された。
 何といっても簡宿放火は、十人もの死者が出た大事件なのだ。それにさど号ハイジャック事件が絡んでいるとなれば、いかに慎重な警察の上層部でも、衆議院議員から話を聞くぐらいは許されると思ったに違いない。
 だが相手の立場を考慮し、寺島と野崎は外され、警察上層部の議員担当、捜査一課長そして島田が会いに行った。だが堀越は「全く知らない」の一点張りで、何の収穫もなかったと、島田から聞かされた。
 ——何かを見つけても、すぐにデッドエンドか。
 寺島は失望したが、それでも突破口を見つけねばならない。
 そんな時、ふとノートのことを思い出し、久しぶりに目を通してみたが、数字の羅列が気になって仕方がない。
——やはり、何らかの暗号に違いない。
その数字を追っていくうちに、それは中野が自分のために書いたのではなく、誰かに何かを知らせるために書かれたのではないかという気がしてきた。
 ——もう一度、整理して考えてみよう。
仮にこれが暗号だとしても、乱数表がなければ解くことはできない。だがその乱数表は、中野健作が身に付けていた。少なくとも放火犯は、そう思い込んでいた。
 ——乱数表は常に刷新される。これは過去のスパイ活動を見れば明らかだ。だがこれは、中野が個人的に作った暗号かもしれない。もしも中野が、自分が死んだ後に何かの秘密を明るみに出したいと思ったら、警察が解けるものにするのではないか。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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