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アンフィニッシュト 32-3

 着陸の衝撃は思ったよりも大きかった。

 メンバーは立ったままだったので、思わず転倒しかけた者もいたが、それぞれ何かに摑まって事なきを得た。

 管制塔の誘導に従い、さど号は一番北側のスポットに駐機した。

 窓の外には警察車両なども散見され、緊迫した空気が伝わってくる。

 前方から、「ブラインドを下ろせ」という声が聞こえてきた。

 前の乗客からブラインドを閉め始める。これにより琢磨たちにも、外部の様子は分からなくなった。

 コックピットのドアは開け放たれているらしく、田丸のものらしき怒号が聞こえてくる。それに乗務員が反論している様子で、状況は緊迫の度を深めていた。

 午前九時頃、後方から何かの物音がした。音のした方を確かめても、とくに変化はない。慌てて最後尾のブラインドを上げて外を見ると、給油車両が横付けされていた。

 ――まさか給油を始めるのか。つまり俺たちを北朝鮮に飛ばすつもりか。

 琢磨は警察が何を考えているのか、さっぱり分からなくなった。

「給油が始まったようですね。これで北朝鮮に行けますね」

 岡田が笑みを浮かべる。だがその瞳は決して笑っていない。

 ――こいつは何を考えているんだ。

 メンバーの誰もが北朝鮮に行きたいと思う反面、帰ってこられなくなるのではないかという不安を感じているのだ。

 だが、ここからが長かった。

 しばらくして給油作業は始まったが、時間稼ぎをしているのか、いつまで経っても終わらない。

 時折、前方から怒号が聞こえるので、遅延工作をしているのは明らかである。

 午前十一時頃、具合の悪くなった乗客が出た。スチュワーデスが介抱させてほしいというので、琢磨と岡田は二人の判断でそれを許した。前方でも同様にスチュワーデスのロープが解かれ、それぞれ問題を抱える乗客の許に飛んでいく。

続いて子供の泣き声が、そこかしこから聞こえてきた。スチュワーデスは、おもちゃが載ったトレーを持って子供に渡していく。

 コックピットでは何らかの協議が続いているらしいが、内容までは分からない。

 午前十一時半頃、田丸がアナウンス用の電話機を取ると、「女性と子供は降ろします。健康状態の悪い人も降ろします」と告げた。

 機内に安堵のため息が広がる。だが、それからがまた長かった。たまに自由な行き来を許されている中田がやってきて、「もうすぐだ」などと告げてくるが、それ以上のことは教えてくれない。中田も詳しい状況は分かっていないのだ。

 ――まだか。

 田丸たちはコックピットの窓を開けて、外部と様々なやりとりをしているらしいが、その内容までは分からない。

 ――どうなっているんだ。

 琢磨も焦(じ)れてきたが、乗客の中からは、「早くしてくれ」という声が上がり始めた。

 具合の悪くなった人は何人かいるが、多くは深刻な状態ではなさそうで、スチュワーデスの介護を受けているのは一人だけだ。それも何かの薬を飲んだのか、すぐに楽になったようで、琢磨はほっとした。

 午後一時を回った頃、突然、さど号が動き出した。

 乗客から不安の声が上がる。このまま飛び立ってしまうと思っているのだ。

 田丸は電話機を取ると、「これから女性と子供、また具合の悪い人を降ろします。そのために今、この機は指定された場所に移動しています」と告げると、乗客は再び大人しくなった。

 ――これで何かが起こる。

 公安なら、この隙を突いて何らかの手を打ってくるに違いない。

 午後一時半過ぎ、タラップが機体前方の搭乗口に付けられたらしい。

 スチュワーデスが慌ただしい雰囲気で前方に向かった。残るスチュワーデスは田丸に何か指示され、女性と子供を通路に並ばせている。

 その時、ドアの前にいた中田が模造刀を抜いた。「キャッ」という悲鳴が聞こえてくる。

 次の瞬間、ドアが開くと、まず中田が外に出て何事か喚(わめ)いた。

 それに続いて田丸たちに背を押されるようにして、女性と子供が外に出ていく。父親らしき人が残っているのか、泣き顔になり、幾度も後ろを振り向く子供もいる。スチュワーデスたちも、その後に続いた。

 ところが男性は、老人も含めて誰も出ていかない。仮病を使う者はおらず、そこに日本男児の矜持(きょうじ)が感じられた。

 中田が機内に戻り、ドアは締められた。だが女性と子供が解放されたことでほっとしたのか、客室内には独特の静寂が漂っていた。

 その後、再びコックピットでのやりとりが続き、二時少し前、さど号は再び動き出した。

 ――まさか、飛び立つのではないだろうな。

 琢磨の背に冷や汗が流れる。

 ――警察は何をやっているんだ。このままでは飛び立ってしまうぞ。

 どうやら警察は、さど号の離陸を、ここでも阻止するつもりはないようだ。

 ――冗談じゃない。なぜ、こいつらを羽田で押さえなかったんだ。

 琢磨の頭に疑問が渦巻く。

 さど号が滑走を始めた。

 ――本当に北朝鮮に行くのか!

 琢磨は前方に走り出し、どうするのか聞きたい衝動を、かろうじて抑えた。

「いよいよ、飛び立ちますね」

 岡田は他人事のように言うと、おしぼりを差し出した。

「すごい汗ですよ」

「そうか。ありがとう」

 感情の動きを岡田に気取られないよう注意していたが、汗ばかりはどうにもならない。

「中野さん、結局、警察は何もできませんでしたね」

「ああ、奴らは無能だからな」

「確かに」と言って冷めた目で琢磨を一瞥(いちべつ)すると、岡田は言った。

「これで、さらば日本――、となりそうですね」

 琢磨の脳裏に突然、桜井の面影が映った。

 ――この世でたった一人の俺の女だ。

 だが、このまま北朝鮮に飛び立てば、いつ帰れるかは分からない。つまり桜井が、別の誰かの女になってしまう可能性は高い。

 ――嫌だ。

 獣のような焦りが込み上げてくる。

 さど号は徐々に加速していくと、遂に離陸した。結局、福岡板付空港には、五時間余もいたことになる。

 すでに乗客は勝手にブラインドを引き上げており、田丸たちも、それを咎(とが)めることはない。

 上空に達したさど号からは、工場の煤煙(ばいえん)でくすんだ北九州の町が一望できた。

 ――これほどずさんな計画でも成功するのか。

 琢磨は笑い出したい心境だった。

 やがて、さど号は針路を北に取ったらしい。瞬く間に陸地が見えなくなる。

 乗客の間には、「どうとでもなれ」といった空気が漂っており、眼下に向かって手を振り、「さいなら、さいなら、さいなら」などと言っておどける者もいる。

 空は快晴で雲一つなく、絶好の飛行日和である。

 さど号は水平飛行に移り、シートベルト装着の解除音が鳴った。

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