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アンフィニッシュト 53-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

「何でしょう」
「最近、死んだと思っていた人が現れませんでしたか」
 藤堂の顔色が変わる。
「あなた、何者——」
 その言葉で、答えは聞いたも同じだった。
「やはり、そうでしたか」
「ちょっと待って。私は何も知らないわ」
「では、中野健作さん、すなわち三橋琢磨さんは、こちらにおられないのですか」
「あんたは刑事(デカ)ね」
「まだ警察には所属していますが、もう戻ることはできないでしょう」
「歩きましょう」と言うと、藤堂は裾の砂を払って歩き出した。
フレアスカートが風に舞い、片手で裾を押さえるその姿は、まるで欧州の絵画から抜け出てきたようだ。
「それで、どこまで知っているの」
「おそらくあなたが、桜井紹子さんだというところまでです」
 寺島は、長らく考えてきた推測を投げつけた。
 藤堂の視線が寺島を捉える。そこには驚きとあきらめの色が混じっていた。
「あなた、赤城に会ったのね」
「はい。会いました。あなたのことについては、ほのめかされただけですが」
「兄らしいわ。昔からほのめかすだけで、真実は語らない」
 桜井が鼻で笑った。
 だが、それが操られていた者の宿命であることを、寺島は知っていた。
「お兄様の死をご存知ですね」
「ええ。でも驚かなかったわ。単に一つの時代が終わっただけのこと。赤城は皆と一緒に北朝鮮に行くべきだった。それをせずに金をせびって、あんなものを始めたのは全くの蛇足だわ」
「赤城さんの四十年が蛇足だと——」
「そうよ。人は死に場所を失うと、ああなるのよ」
「しかし赤城さんは、しっかりと落とし前を付けました」
「それだけは、兄を誇りにしていいかもね」
 桜井が白い歯を見せて笑う。
「それにしても、どうして誰も、あなたのことに気づかなかったのですか」
「ああ、そのことね」と言うと、桜井はバッグから煙草を出して火をつけた。
「北欧で整形手術を受けたからよ。赤城の命令でね。『金はいくらでも出してやるから、二度と帰ってくるな』とも言われたわ」
 日よけ帽からはみ出た桜井のロングヘアーが、風になびく。
「だが、帰ってきた」
「ええ。欧州に私の居場所はなかった。でもこの国にはあるわ」
 ——一度、社会運動に身を投じた者が、そこから抜けられなくなるというのは、本当なのだな。
 社会運動家には、常に情熱を燃やす対象が必要なのだ。
「帰国してから、憲法改正や女性の貧困といった問題を知るようになり、いつしか運動に加わるようになったの」
「それで、辺野古の問題にもかかわるようになったんですね」
「ええ、そうよ。もう安保にも米軍にもうんざり」
 桜井は疲れたような笑みを浮かべた。
「ずばりお聞きしますが、三橋さんは、こちらにいらっしゃいますね」
「あなたは彼を殺しに来たの」
 その直截な問い掛けに、今度は寺島が笑った。
「暗殺者は名乗りません。私は真実を知りたいだけです」
「知ってどうするの」
 それについて、寺島は沈黙で答えた。
「三橋さんにお伝え下さい。アタッシュケースはお返しします。その一言で、すべては分かるはずです」
「分かったわ」
 そう言うと桜井は新聞を返し、元来た道を引き返していった。

 翌日、寺島はテント村から少し離れた場所にある桜井の宿舎に呼び出された。
アタッシュケースを抱えた寺島が指定された民家に行くと、桜井の隣に七十がらみの男が一人座っている。
「失礼します」と言って入室すると、男が少し顔を上げた。男の目が寺島の持つアタッシュケースに吸い寄せられる。その眼光は鋭く、男が長い間、周囲を警戒して生きてきたことを物語っていた。
「寺島と申します。あなたが三橋さんですね」
 男が用心深そうにうなずく。
「まずは、これをお返しします」
 寺島がアタッシュケースを差し出すと、三橋がぽつりと言った。
「よくぞたどり着いたな」
「まさか過去の乱数表を使っているとは思いませんでした」
「でも、それに気づいたってわけだな」
「はい」と言ってうなずきつつ、寺島が問う。
「やはり簡宿にいらしたのですね」
「ああ、あそこなら人の出入りが激しい上、警察にも近いから、いざとなれば逃げ込める」
 寺島の推察通りの答えが返ってきた。
「だが逃げ込まなかった——」
「それは、警察でさえ堀越一派の言いなりだからさ。身柄を確保されたら、もうまな板の上の鯉だ。だから石山には悪かったが——」
「身代わりになってもらったと」
「そうだ。石山には可哀想なことをした」
 三橋の言葉に感情が籠る。
「川崎駅前で偶然出会ったのが運の尽きさ。何度も『人違いです』と言ったのに、石山は『間違いない』と言って涙ぐんだんだ」
「それで簡宿に連れ帰って、一緒に飲んだのですね」
「そうだよ。俺だって、もう酒ぐらいしか楽しみはないからな」
 三橋が自嘲する。
「奴は俺の話などろくに聞かず、自分のことばかりを話していたな。話を聞いてほしかったのさ」
 寺島は石山のことを写真でしか知らない。だがその人生を知れば、さもありなんと思った。
「奴にも人生があった。だが奴は負けた。奴は自分で負け犬だと言っていたが、それを否定する言葉を見つけられなかった」
「石山さんは、三橋さんのことを、あまり聞いてこなかったのですね」
「俺がきな臭いのは、奴も知っていたからね」
三橋が桜井に茶碗を差し出す。
「もうやめたらどうですか」
 桜井が非難がましく言う。
「こればかりはやめられないよ」
「大事なお体ですよ」と言いながら、桜井が三橋の茶碗に泡盛を注ぐ。
二人の親密な様子は夫婦にしか見えない。
「それで焼け出された三橋さんは、警察に出頭せずに赤城さんの許に身を寄せた。しかし、突き出されるリスクがあるのになぜ——」
「以前はそうだったさ。赤城は堀越の手先だったからな。でも教団が堀越の考えと真っ向から対立するようなスローガンを掲げ始めたので、仲違いに気づいたのさ」
 ——さすがだ。
 三橋の勘の鋭さに、寺島は舌を巻いた。
 桜井が話を引き取る。
「それでこの人は、兄から私の居所を聞いて、やってきたのです」
 三橋が泡盛を飲みながら言う。
「桜井さんが藤堂亜沙子なる女性になっていたとは、赤城から教えられるまで、俺も気づかなかった」
 二人が顔を見かわす。
「衝撃的な再会シーンだったな」
「ええ、また会えるとは思いませんでした」
 桜井が感慨深そうに言う。むろん桜井も、三橋が生きているとは思ってもいなかったのだろう。
 ——それで、ここでかりそめの夫婦生活を送っているというわけか。
 寺島は、二人の間に流れる濃密な空気を感じた。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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