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アンフィニッシュト 35-2

 苛立ちの中で四月二日が過ぎていった。食事や飲み物はコックピットの窓から搬入され、電源車によって機内の温度も調整できるようになった。最大の問題だった汚水貯留槽から漏れる悪臭も、機外に取り付けられたポンプから汚水が排出されたので、幾分か改善された。

 機内の状況は改善されたが、長い間、拘束されたままでいる乗客のストレスは極限に達しているはずだ。

田丸は乗客を数人ずつ立たせると、伸びをさせたり、簡単な体操をさせたりしている。それだけで随分と気分が変わり、リラックスできると知っているのだ。

 それでも持久戦に入ったことで、このままの状態が長引けば、乗客の中には体調不良を訴える者も出てくるに違いない。それが心臓などの深刻なもので、万が一、死亡する者が出れば、メンバーたちは殺人罪に問われることになり、罪は格段に重くなる。

 じりじりするような重苦しい時間が過ぎていく。緊張は極限に達し、頭がぼんやりしてくる。
脳が、長時間にわたる緊張から解放されたいという叫び声を上げているのだ。

 乗客たちを見回すと、ハイジャック直後の緊張とはほど遠い「どうとでもなれ」という雰囲気が漂っている。寝ている者はずっと寝ており、起きている者は、ぼんやりした顔で何か考えるでもなく過ごしているように見える。

 ――もう限界だ。

 この状態で韓国軍に突入されたら、退避姿勢の一つも取れず、流れ弾に当たる乗客が出てくるかもしれない。

 琢磨は高齢の人だけでも解放すべきだと思ったが、それを提案すれば、また中田に疑われるに違いない。最初の体調不良者が出るまで、琢磨はその提案を控えることにした。

 機内には鬱屈した空気が流れ、もはや乗客にいたわりの言葉を掛けるメンバーもいない。時折、トイレに行きたいという乗客がいても、「我慢できなくなってからにして下さい」と言って行かせないようになってきた。

 田丸や大西も苛立ちを隠さず、政府や日航を口汚く罵るようになった。コックピットの中で、乗務員とやり合う回数も増えてきた。数日間、寝ていないパイロットたちの苛立ちは、乗客以上のものがあるに違いない。

 ――こんな状況で飛行機を飛ばせるのか。

 パイロットたちも限界に達しているに違いなく、北朝鮮まで飛ぶとなったらなったで、別の危険が出てくる。

 ――もう、どうとでもなれ。

 琢磨は、すべての心配事からも解放されたい気分になっていた。それが乗客を守るという使命において、いかに危険な兆候かは分かる。だが、何もかも忘れたいという衝動は、どうにもならないのだ。

 琢磨と岡田は交代で眠るようにしたが、精神が麻痺してきたのか、こんな環境でも、すぐに眠りに入れるようになった。

 ――もう桜井のことを思うこともないのか。

 琢磨の心身も思った以上に疲労していたらしく、桜井のことを考える余裕もなくなっていた。

 三日午前、外部との交渉が活発化してきた。ドアのない副操縦士側の窓横にタラップが付けられ、話し合いが続いているらしい。十時半頃には大筋で合意されたらしく、田丸らの顔にも、ほっとした色が浮かんでいる。むろん琢磨には詳細が伝えられないので、どう折り合いを付けたのか分からないが、状況の打開に向けて動き出したのは間違いない。

 田丸たちは交渉がうまくいったことに満足しているようで、笑顔さえ見られるようになった。だが琢磨は、これが田丸たちの交渉力によるものではなく、誰かの意思によって、罠にはめられている気がしてならなかった。

 ――日本の公安は甘くない。韓国政府も絡んでいるならなおさらのことだ。

 琢磨は、日本の公安警察の周到さと厳しさは身をもって知っている。日夜、北朝鮮のスパイを警戒する韓国政府や韓国軍に至っては、日本の比ではないだろう。

 だがここまでは、あらゆることが後手に回っている。

 ――どうしてなんだ。

 疲労した頭で考えても、明確な回答は出てこない。もはや事件は日本の公安の手を離れ、韓国政府を頭から抑えられるほどの大きな力に委ねられているとしか考えられない。

 ――日本政府が韓国政府を抑えられるのか。

 それは到底、無理な話である。戦後、外交交渉において平身低頭することしか知らない日本政府に対して、韓国政府は居丈高に振る舞うようになってきており、いくら金を積もうが言うことを聞いてくれるはずがない。北朝鮮が絡むことは金で解決できないのだ。

 ――では、二つの政府の上に立つ者がいるのか。

 それは一つしかない。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 この事件に米国政府が関与してくる理由はない。

 その時、「おい、お前ら」と言いつつ、中田がやってきた。

「何ですか」

「これからの段取りを伝える」

 中田が小声になる。

「乗客を解放することになった」

「それはまた、どうしてですか」

 岡田が驚いたように問う。

「とにかく聞け」と言って、中田が段取りを話し始めた。

 まず乗客を前後の席で半分ずつに分け、前半分が降りたところで身代わりの政務次官が入り、その後に、後ろ半分を降ろすというのだ。

 しばらくして前半分の乗客が立たされると、通路に並ばされた。

 ――いよいよ解放か。

琢磨はほっとしたが、それならそれで油断はできない。

 ドアが開けば、何があるか分からない。韓国政府は、日本人ハイジャッカーの命など毛ほどにも思っていないに違いなく、強硬策も辞さないはずだ。

 その時、乗客の中にいる一人が、鞄の中から書類ファイルらしきものを取り出すと、シャツの中に入れてベルトで締めた。

 初めは何をやっているのか分からなかったが、もしもの場合の銃撃戦に備えていると分かった時、琢磨の背筋に寒気が走った。

 ――乗客も馬鹿ではない。

 かつて琢磨は、このような場合の段取りを警察学校で聞いたことがある。突入部隊は、行き当たりばったりでターゲットを狙うのではなく、どういうフォーメーションで散開し、それぞれの狙撃手が、どこにいるターゲットを撃つかを事前に決めておくというのだ。すでに韓国軍は、同じ型式の機を使って演習まで行っているかもしれない。

 ――そうなれば、わわれはおしまいだ。われわれどころか乗客からも死傷者が出る。

 乗客に危害を加える気などさらさらない田丸たちは、突入されても何ら抵抗できずに次々と撃たれていくに違いない。そうした地獄図の中で、乗客を盾にする者が出ないとも限らない。

 ――そうなった時、韓国軍兵士は乗客もろとも撃ってくるだろうか。

 その答えは一つである。日本人に憎しみを抱いている韓国人は多い。とくに兵士はその傾向が強いと聞いたことがある。

「中野さん、うまくいきますかね」

 岡田が心配そうに問うてきた。

「韓国政府が、何かを仕掛けてくる公算が高い。気を付けていろ」

「やはり、そうですよね」

 岡田がうなずく。落ち着いているようでいて、岡田も事態を楽観していないのだ。

 いよいよドアが開けられようというその時、機長から機内放送があった。

「日韓両政府と赤軍派諸君の尽力により、乗客の皆様が全員無事に帰国できることになりました。これも皆様のご協力があってのことで、乗員一同、心から感謝しております。いつの日か、再びお会いできる日を楽しみにしております。それでは皆様、お元気で。ありがとうございました」

 最初とは比べ物にならないほど、落ち着いた口調である。

 期せずして乗客から拍手がわき上がった。

 コックピットのドアが開け放たれていたため、乗員たちの努力は乗客もよく知っている。

 ――パイロットたちも、一緒に北朝鮮に行くんだな。

 北朝鮮に行くという事実が、実感を伴って迫ってきた。

 帰れるかどうかも分からない地に、無理やり連れていかれる彼らの心中は、察して余りある。

 午後二時半、ドアが開いて先発組の乗客が降り始めた。

 ドアの近くにいる田丸と大西は、一人ひとりに声を掛けて頭を下げている。乗客の中には握手を求めたり、肩を叩いたりする者もいる。どうやら皆、「がんばれ」といった類いのことを言っているらしい。

 知らぬ間に、メンバーと乗客の間には、奇妙な同志意識が醸成されていたのだ。

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