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『深重の海』の重さ 【歴史奉行通信】第五号

こんにちは。
早くも第五号目の歴史奉行通信です。

すでにご存じの方も多いと思われますが、私は二カ月に一度の頻度で読書会を開催しています。

作家が自作の読書会にアテンドするのも珍しいと思いますが、皆さんの声をダイレクトに聞き、
それを作品にフィードバックしていくためにも、私にとって重要な会となっています。

「伊東潤の読書会」は主に奇数回に自著、偶数回に他人の作品を取り上げています。
バックナンバーとしては以下、

第1回『国を蹴った男』
第2回『沈黙』(遠藤周作氏)
第3回『江戸を造った男』
第4回『関ケ原』(司馬遼太郎氏)
第5回『走狗』

を取り上げてきました。
どの回も得るところが多く、創作の上でも、たいへん役立つディスカッションができると同時に、
とても楽しい時間を過ごせました。それは参加者の皆様も同じらしく、高いリピーター率を誇っています。

第1回の様子はレポートがありますので、以下のリンクをご覧下さい。
https://note.mu/jun_ito_info/n/nf3aa41e5adb5

またコーディネーターの佐渡島庸平氏とのミニ対談では、参加者各位からの質問に答える機会も設けています。

さて12/2(土)開催予定の第6回では、津本陽氏の『深重(じんじゅう)の海』を取り上げます。

この作品は、拙著『巨鯨の海』『鯨分限』のルーツとも言える名著です。
津本氏はこの作品を同人誌「VIKING」に連載し、それが目に留まり、何と直木賞候補になり、
しかも受賞してしまうという、今では考えられないような文壇デビューを飾りました。
今回は、私が過去に寄稿した『深重の海』のエッセイを二点掲載します。

この作品の素晴らしさを知り、一人でも多くの方に読んでいただきたいと思っています。
そして読書会で、この作品について語り合いましょう。

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エッセイ1「弥陀如来さえ救えぬ世界で」
(集英社 小説すばる「わたしを変えた一冊」より)

「たとい罪業は深重なりとも必ず弥陀如来はすくいましますべし」
という蓮如上人の言葉からタイトルをつけたというこの作品で、津本陽氏は昭和五十三年、直木賞を受賞した。

いまだ高度成長の残り香が漂う当時の日本に、鉛のように重いこの作品が、いかなる反響を呼んだのか、私は知らない。
私がこの作品を読んだのは、発表から十年ほど後のことだからだ。
おそらく希望に満ちた未来に向かって、人々は坂の上の雲を見つめており、当時、この作品の意義は、
さほど伝わらなかったのではないだろうか。

この作品が発表されてから、三十四年余の歳月が流れた。その間に、われわれは幾多の苦難に遭遇した。
バブル崩壊という人為的な災害はもとより、阪神・淡路大震災や3.11のような自然の猛威にもさらされた。
その結果、われわれは、未来は決して明るいものではないということを知った。

太平洋戦争に敗れ、米国の支配に組み込まれて以来、「拝金主義」のグローバリズムは限界に達しつつあり、
世界経済は軋み音を上げて崩壊しようとしている。

さらなる富を求めて世界をさまよう巨額の投機資金がある一方、アジアやアフリカでは、人々が飢えに苦しんでいる。
それは日本も同様で、210万人を超える数の生活保護受給者が巷には溢れている。
金持ちはさらに金持ちになる一方、貧困は、われわれの足元に忍び寄り、
平均的一般家庭にまで崩壊の波は押し寄せつつある。

一方、隣国の軍事的脅威は日増しに激しくなり、遂には、民主主義を否定する一党独裁国家によって
領土さえ侵食されようとしている。彼らがいつ何時、日本の島嶼に侵略の手を伸ばしてくるかは分からない。
また、大地震が東海地方や首都圏を襲う可能性は日増しに高くなり、その被害シミュレーションでは、
何十万という人が死ぬのは避けられないという結論を出している。
しかも政府や野党は不毛な政局論争に明け暮れている。

われわれは、弥陀如来さえ救えぬ世界に生きている。
 
この作品の舞台は、津本氏の故郷である和歌山県和歌山市に近い同県太地である。

太地といえば、記録映画『ザ・コーヴ』で批判の的となったことからも分かるように、鯨漁の盛んな地だ。
江戸初期、太地頭領の太地角右衛門頼冶は、網取り漁法を開発し、鯨漁の組織化に成功、太地を繁栄へと導いた。
これにより、太地の人々も豊かな暮らしを享受できた。

しかし江戸末期になると、状況は一変する。米国の捕鯨船が近海に出没し、鯨が日本沿岸に来る前に捕獲してしまうので、
太地の鯨漁は急速に衰え、人々の生活は困窮を極める。
むろん事業主も借金浸けとなり、太地の人々は明日にも鯨を獲らないと、
村の娘という娘を売らねばならないところまで追い込まれる。

そうした中、無理な状況下で鯨漁を敢行し、「大背美流れ」という遭難事件が起こる。
これにより鯨漁の熟練者のほとんどを失い、太地は立ち直れないほどの打撃を受ける。
後半部分では、遭難事件から立ち直ろうと奔走する人々の奮闘と挫折までが描かれている。
そうした救いのない村に、遂にはコレラという猛威までもが襲い掛かり、人々をさらなる地獄に突き落としていく。
まさに救いのない話である。

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