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エッセイ「尼将軍・北条政子の強さと悲哀」 【歴史奉行通信】第五十三号

こんばんは。伊東潤です。


11/6(水)、「歴史奉行通信」第五十三号を
お届けいたします。

〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめにー
『修羅の都』で頼朝と政子を描いた背景

2. エッセイー
「尼将軍・北条政子の強さと悲哀」

3. おわりに / 伊東潤メッセージコーナー /
  感想のお願い

4. お知らせ奉行通信
  新刊情報 / 読書会 / その他


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1. はじめにー
『修羅の都』で頼朝と政子を描いた背景

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冬が近づいてきましたね。
冬と言えば冬将軍、将軍と言えば頼朝ですね。


という強引な摑みで始めましたが、
11/6と11/20のメルマガは
鎌倉幕府特集とします。


というのも、
今回は12月14日に開催される
「鎌倉市政80周年記念講演会&
パネルディスカッション」
と同日に行う
「伊東潤の鎌倉めぐりオフ会&読書会」
を前にして、
頼朝と政子について
知っていただきたいと思ったからです。


2018年2月、私は
『修羅の都』という作品を上梓しました。
公明新聞紙上で約一年間にわたって
連載したこの作品は、
頼朝と政子の視点から
鎌倉幕府の草創期を描いたものです。


この作品を書いた動機は、
頼朝と政子の人物像に
深く惹かれるものがあったからです。
朝廷と公家たちによる支配を終わらせ、
武士の時代の幕を開けたという
偉大な功績は、頼朝と政子の二人でなければ
成せなかったことでしょう。
しかしそれと引き換えに、
彼らは想像も絶するような苦悩を
抱え込みました。


今回は、文藝春秋本誌(2018年5月号)に
掲載された北条政子についてのエッセイを
転載します。


女として、母として、
政子がいかなる生涯を歩んでいったのかを、
エッセイで概観いただければ幸いです。

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2. エッセイー
「尼将軍・北条政子の強さと悲哀」

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歴史上、女傑は多かれど、
夫の源頼朝を助けて鎌倉幕府を開き、
頼朝の死後は息子の二代将軍頼家と
三代将軍実朝の後見者として、
さらに二人の死後、尼将軍として
鎌倉幕府を取り仕切った北条政子の
右に出る女傑はいないだろう。
しかもその晩年、
承久の乱で朝敵とされながらも、
困難な戦いを勝ち抜くことで、
武士の時代を盤石なものにしたのは
誰あろう政子なのだ。


ちなみに日本史において、
朝敵とされた者が勝った唯一の戦が
承久の乱で、その勝者の頂点に政子がいたことは、疑う余地もない事実である。


私は政子という希有な存在に惹かれた。
同時に、朝廷から政権を取り上げて
武士の時代を切り開くことの
困難さも思い知った。それゆえ、
頼朝と政子の苦難の軌跡を描こうと思った。

それが長編小説『修羅の都』である。


彼女のどこに、これほどの偉業を
成し遂げる力があったのか。
今となっては想像するしかないが、
少なくとも政子が生まれついて
芯の強い女性だったのは
間違いないだろう。


政子の運命を変えたのは、
一人の貴公子だった。
言わずと知れた源頼朝である。
だがこの貴公子は、
平清盛に父義朝が敗れたことで、
流人として伊豆に流されてきたにすぎない存在だった。


政子と出会う前、
頼朝は伊豆で最大勢力を誇っていた
伊東祐親の娘の八重姫と関係を持った。
祐親が大番役で京都に行っている隙に、
二人の間には千鶴御前という男児も生まれた。


だが、平家からにらまれることを
危惧した祐親は、千鶴御前を殺して
頼朝と八重姫の仲を引き裂いた。


この時、
祐親から命を狙われていると察した頼朝は、
懇意にしていた北条時政の許に逃れ、
そこで政子と知り合って結ばれることになる。


運命の不思議と言ってしまえばそれまでだが、
もしも祐親が娘と頼朝の関係を容認していたら、
鎌倉幕府の御家人たちを束ねるのは
伊東一族になったはずであり、
北条一族は御家人たちの末端に
名を連ねるだけの存在で終わっただろう。
もちろん政子が歴史に名を残すことも
なかったはずだ。


だが、時政とて祐親と立場は変わらない。
この時、時政も二人の仲を割こうとした。
だが政子は時政の許を脱し、
一山越えた地に隠れている
頼朝の許に飛び込んでいった。
そうなれば時政も許さざるを得ず、
この源氏の貴公子に
一族の運命を託すことにする。
これこそ政子の強さを表す挿話であろう。

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