見出し画像

「信長の見た夢と光秀の見ていた現実」 | 【歴史奉行通信】第五十八号


*この記事は1/15(水)配信伊東潤メルマガ「歴史奉行通信」を再編集したものです。無料メルマガ登録はこちらから


1. はじめに


こんにちは。伊東潤です。

さて、正月気分も抜け、
皆様も
仕事に邁進しているのではないかと思います。


私も正月は少しペースダウンするのですが、
例年どこかに遠出するでもなく、
テレビを見る時間を増やすくらいです。


テレビを見る時間を増やす
といっても私の場合、
主に録画したビデオやDVDで
映画やドラマを見るのですが、
今年はレンタル落ちの『花の乱』
全巻セットを購入したので(14,800円)、
主にそれを鑑賞していました。


というのも現在、小説誌「野生時代」で、
同じ日野富子を主人公に据えた
『悪しき女 室町擾乱』を連載中なので、
参考になればと思ったからです。


『花の乱』は1994年に製作され、
全37話という変則的な回数の
大河ドラマです。


実はこの作品はNHKが一時的に
導入しようとした「半年大河」の第三弾
として制作されようとしていたのですが、
前年の「半年大河」の
『琉球の風』と『炎立つ』が
視聴率的に振るわなかったので、急遽、
1月から9月までとされたようです。
ちなみに『炎立つ』も半年から
九カ月(35話)に引き伸ばされたようです。


内容的には、室町時代の幽玄美を
意識した作風になっていますが、
引き伸ばし感はぬぐえず、
とくに富子が子供の頃のエピソードの数々などは、松たか子の熱演にもかかわらず冗漫になっています。


数年前には
『黄金の日日』や『太平記』も見ましたが、
こちらは堂々たる傑作で、
やはり大河ドラマは一年が基本だと
痛感しました。
それでも大河ドラマは毎年の楽しみですね。


とくに今年は『麒麟がくる』という
明智光秀を主人公にしたものなので、
前々から楽しみにしていました。


ということで今回は、
2018年のはじめに某歴史雑誌に掲載された
「信長の見た夢と光秀の見ていた現実」
という寄稿に手を加えたものを
お送りしたいと思います。


2. 「信長の見た夢と光秀の見ていた現実」(前編)


■信長は誰に倣おうとしたのか


十六世紀という信長や光秀の生きた時代は、
スペインやポルトガルの
世界進出が本格化し、
世界の最東端の日本にも到達した
大航海時代の最盛期だった。


彼らが大海に漕ぎ出したのは
交易による利潤を求めてのものだったが、
交易とセットになったイエズス会の教線も、
日本にまで伸びてくることになる。


宣教師たちはキリスト教を布教すると同時に、
欧州文化(南蛮文化)や
科学の先進性を伝えることで、
日本をキリスト教国化しようとした。

そうした多方面からの「圧力」が、
布教には効果的だと知っていたからだ。


こうしたことから、欧州の文物が
日本に流れ込んできた。
とくに欧州の様子が描かれた絵画は
日本人に衝撃を与えると同時に、
異世界への憧れをかき立てるものだった。


絵画を中心にした異国趣味は
盛り上がりを見せ、
天正十五年(一五八七)に豊後国で
布教活動に携わっていた司祭の一人は、
本国へ出した手紙の中で
「日本人は欧州の武人や戦いの絵を好む
(ので大量に送れ)」
と書き残したほどだ。


しかし、日本に入ってくる本場物には限りがある。
そのため狩野派までもが
欧州絵画を模写したり、
モチーフとしたりしていたほどだ。
それでも武将や有徳人(金持ち)たちの
注文は引きも切らない。
そのためイエズス会は、
天草に画学舎(セミナリオ工房)を造って
日本人洋画家を養成し、
いわゆる南蛮画を量産した。


その中でも、とくに南蛮屏風は好まれた。
日本には額縁に絵画を入れて飾る
という習慣がなかったので、
気に入った絵画を鑑賞したり、
招待した客に見栄を張ったりするためには、
掛軸と並んで屏風が最適だった。


こうしたものの中に、
「四都図」という八曲一隻の屏風がある。
現存品は画学舎で学んだ
日本人画家が描いたものだが、
手本となる原画があったのは間違いない。


ここで描かれている四都とは、
イスタンブール、ローマ、セビリア、リスボン
で、とくにローマの巨大さが際立っている。


当時のヨーロッパでは、
イスパニア(スペイン)のフェリペ二世が
王統の絶えたポルトガルを
合法的に併呑することで(一五八〇年)、
セビリアとリスボンという
二大港湾都市を支配下に置き
(セビリアは内陸部の都市だが
河川を使った交易都市と言える)、
欧州の交易の約半分を独占していた。
その結果、フェリペ二世は
欧州で並ぶ者のない権勢を手にし、
「欧州半国の王」と呼ばれた。


時代的に、この屏風の原画は
信長に献上されていた可能性がある。
もしそうだとしたら、
信長は強い興味を示したのではないだろうか。



■土地に代わって富を生み出すもの


元々、信長の父にあたる信秀は、
伊勢湾交易網を掌握して莫大な財を築き、
それを元手に守護代家の一奉行から
尾張半国の領主になった一代の傑物である。
それを見て育った信長には、
富を生み出すのは土地ではなく港だという
認識が染み付いていただろう。


それゆえ足利義昭を奉じて上洛するや、
琵琶湖舟運の要である大津と
瀬戸内交易網の東端に位置する堺を、
すぐに押さえに掛かったのだ。


土地が富を生み出すためには、
管理の難しい農民を統治せねばならず
(当時は一向一揆などが絶大な力を持っていた)、
信長にとって収穫を利益にするための
プロセスは面倒でならなかったはずだ。


だが配下の者たちは、
信長ほど先進的かつ革新的ではない。
つまり富を生み出すのは土地だという概念から
抜けられない人々が大半だった。
そのため信長は土地を奪って
与えるしかなかった。


だが信長は国内の土地に
限りがあるのを知っており、
「御茶湯御政道」を掲げて
茶の湯興行を認可制にしたり、
今井宗久ら堺商人を使って
茶道具バブルを起こしたりして、
土地に代わるものを与えようとした。


信長と茶の湯の話は別の機会に譲るとして、
信長が交易と港湾に強い関心を示したことは
間違いないだろう。


3. 「信長の見た夢と光秀の見ていた現実」(後編)


■虚栄心に身を滅ぼした秀吉


後に秀吉が大坂に本拠を構えたのも、
信長の構想に倣ったというのが
定説となっている。


信長は本願寺から大坂を奪うために
十年余という貴重な歳月を使い、
結局、それが足枷となって、
天下人となる前に死を迎えねばならなかった。


信長の事業を引き継いだ秀吉は、
信長に倣って交易と港湾を重視し、
大陸へも進出するつもりでいた。


現に秀吉は、獲得した領地を惜しげもなく
家臣たちに分け与えており、
豊臣家の最盛期(天正十八~十九年頃)でも
蔵入地(直轄領)の石高は
二百二十万石ほどで、
同時期の徳川家康の
二百五十万石余には及ばない。


しかし秀吉には、見栄っ張りで
自己顕示欲の強い一面があり、
それが豊臣政権の命脈を縮めてしまう。


すなわち秀吉の失敗は、
「大陸の王」となるべく、
半島や大陸を点ではなく面で
押さえにいったところにあった。
文禄・慶長の役である。
しかも自分の寿命を考えずに
それを行ったため、撤退という
中途半端な結果で終わってしまった。

おそらく信長であれば、
そんな失敗はしなかったはずだ。


では信長は、何を考えていたのか。

ここから先は

2,394字
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?