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アンフィニッシュト3-2

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 半ば予想していた通り、収容品の数々からは、いくつかの指紋が検出された。しかしそれらが、最後の一人の身元を特定するものとはならなかった。

 しかも寺島が気になっていたノートからは、指紋が検出できないと分かった。ノートの紙質が古く、分泌物も吸収されてしまっているからである。

 ノートをペラペラとめくってみたが、そこに書かれているメモのようなものが、何を意味するのかも分からない。

 ——これは、どういうことか。

 そのメモのどれもが2Bの鉛筆で書かれているらしく、どれも色濃く残っている。

「H・J」

「P・B・刀」

「S・S Come テキストLearn」

「R・S delay」

「K Ticket うけ」

「362 43 358 65 293 17————」

 それらの英語と日本語の交じった言葉は、筆記体で書かれている。中にはミミズがのたくったような字で書かれ、判読し難いものもある。

 ——つまり、英語でメモを取れるほどの教養があるということだ。

 大卒で順風満帆な人生を送ってきた者でも、いくつかの偶然から簡宿に落ちることがある。それを思えば、何ら不思議なことではない。

「あっ」

 その時、寺島は一つのことに気づいた。

 ——電話のメモ代わりに使ったのか。

 というのも、いたずら書きのように、何カ所かに鉛筆をこすりつけたような跡が残っているからである。

「寺島君、何をやっている」

 ノートを眺めていると、誰かに声をかけられた。はっとして振り返ると、野崎が背後に立っている。

「それは何だ」

「預かってきたコインロッカーの収容物です」

 寺島が立ち上がろうとするのを制した野崎は、空いていた隣の椅子に腰掛けた。

「あの溶けた鍵の件か」

「はい。収容物の中に、何かヒントがあればと思いまして」

「だが、その鍵が京急川崎駅のコインロッカーのものとは限らないだろう」

「その通りです。ただ長期で預けている場合、追加料金を払うなら、近い場所にあるコインロッカーの方が便利ではないかと思いまして」

「簡宿に泊まっている奴が、コストの高いコインロッカーを使うというのか」

 下層に生きる人々を蔑むような野崎の物言いに、寺島は少し鼻白んだ。

「何か大切なものなら、払うのではないでしょうか」

「一日三百円、か。まあ、あり得ない話ではないな」

 野崎が席から立ち上がった。

「野崎さん、こうした収容物から、放火犯をたぐり寄せることができるかもしれません」

「何だと。そんなものがあてになるか。そいつは、あそこに住んでいた者たちのものとは限らないじゃないか」

 確かに野崎の言う通りである。鍵が溶けていることで、どのコインロッカーか特定できないため、収容物を証拠品として扱うことは難しい。

「君の力など借りなくても、犯人は俺が見つけてやる」

 野崎が憤然として立ち上がった。

 少しでも野崎に関心を持たせようとした寺島の一言が、誇り高い野崎を怒らせてしまった。

 ——俺も馬鹿な男だ。

 寺島は自嘲すると、ほかの収容物に何か手掛かりはないか、物色を始めた。

 七月から八月にかけて、日本列島は猛暑に襲われた。連日、うだるような暑さが続き、熱中症で倒れる人々が続出した。

 そんな中、安全保障関連法案の可否をめぐって国会が紛糾し、それが国民にまで飛び火し、大きな運動が巻き起ころうとしていた。それを先導しているのが、NPO団体「日本の楔」を主宰する藤堂亜沙子という女性闘士である。すでに六十を過ぎている亜沙子だが、その清楚なたたずまいとは裏腹な熱弁を振るう姿に、マスコミ各社は飛び付いていった。

 寺崎は仕事柄、政治に無関心ではない。同世代の警察官の中でも、逆に関心を持っている方である。しかし立場上、政治談議を仲間内ですることは、たとえ署内であってもはばかっている。政治や社会問題というのは、皆、意見が微妙に食い違い、それが元で、あらぬ誤解を生むこともあるからだ。

 八月になっても、最後の一人が誰だったのか、全く手掛かりはつかめなかった。

 ——ラストマン・スタンディング、か。

 寺崎の前に、最後の一人が立ちはだかっていた。

 ほかによい方法も思い浮かばないので、近隣の簡宿に住む人々に聞き込みを続けた。だが、なかなか最後の一人の実像が浮かんでこない。ひっそりと暮らしていたのは間違いないが、簡宿で暮らす人々の場合、意識的に横のつながりを持とうとでもしない限り、いくらでも孤立できる。

 しかも簡宿では、長く住む者ほど下の階に移り、利便性を高められるようになっているという。つまり最初は三階に住んでいても、大家に「長くいたいので下の階が空いたら教えてくれ」と告げておくと、下の階に移れるのだ。それゆえ一階に住む者の中からは、一人の犠牲者も出なかった。

 そういった事情により、一階に住む者たちは互いに顔や名前を見知っていたが、三階に住む人々のことは、ほとんど知らなかった。つまり同じ簡宿に住む者でも、人間関係に濃淡があるのだ。

 寺島は大家にも幾度となく会った。しかし大家は高齢な上、話が要領を得ない。それでも家賃の収受だけはきちんとしていたらしく、日払いの場合、滞れば必ず催促に行ったという。

 寺島は大家の記憶を喚起すべく、生き残った者や身元の分かった犠牲者の生前の写真を見せ、消去法で手掛かりを摑もうとしたが、大家は首をかしげるばかりである。

 しかも最後の一人は支払いが滞ることはなく、月払いできちんと納めていたらしく、催促した記憶もないという。

 どうやら現金の収受が多いこともあり、窓口にはアクリル板が張られており、現金収受口のようなものが設けられていたという。それでも大家が座っている位置から見上げれば、店子の顔が見えるものだが、ちょうどそこに「共同生活のルール」なる張り紙があり、死角になってしまっていたらしい。

 致し方なく寺島は、一階や二階の生き残った住人に何度も会い、何か思い出したことがないか聞いて回った。しかし彼らの流動性は高く、連絡が一人途絶え、二人途絶えしていく。場所を移る時は「連絡先を知らせてくれ」と告げていても、彼らはそうしない。

 ——警察が、彼らの味方でないのを知っているのだ。

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