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アンフィニッシュト4-2

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——文学部はここだな。

「文学部オリエンテーション会場」と書かれた立て看板を横目で見つつ中に入ると、古い建物特有の黴(かび)臭さがが鼻をついた。

 中に入ると、多くの学生でごった返していた。早速、通路脇の席に着いたが、すぐに何かの紙束を脇に抱えて走り回る者たちが目に付いた。彼らは独特の雰囲気をたたえており、はっきり「その手の人」だと分かる。

 琢磨の席にも痩せて長髪の男が近づいてくるや、「お願いします」と言って、机の上にガリ版刷りのビラを置いていった。そこには赤字で「ベトナム戦争反対」と書かれている。

 ——統学連ではないな。

 そのビラの最下部には、別の団体の名が記されていた。

 それを何気なく眺めていると、「ご関心がおありですか」と、斜め後ろの通路から声をかけられた。

 驚いて振り向くと、いかにも「その手の人」にありがちな器量をした女性が立っていた。しかもその着ている鼠(ねずみ)色のセーターは、ほつれている箇所があり、髪も後ろでまとめているだけである。

 ——私は闘士だから、自らの容姿や生活など顧みない。

 それが、こうした女性の誇りであり、逃げ場であり、言い訳なのだ。

「ベトナム戦争について、どう思われますか」

「いや、ぼくは政治に関心がありませんから」

「でも今、ビラを読んでいたでしょう」

 その詰問口調には、ノンポリ学生たちへの不満が溢れている。

 ノンポリとは「Non Political」の略語で、政治に関心のない学生たちのことを言う。

「座っていたら配られたので、ただ字面を追っていただけです」

 だが彼女は、こちらの話など聞いていない。

「われわれの集会に来て、一緒に闘いましょう」

「闘うって、誰と」

「アメリカ合衆国の走狗と化している現政権です」

「いや、勘弁して下さい」

「集会に来ていただくだけで構いません」

「すいません。田舎から出てきたばかりなんです」

 それを聞いた女性は、憐れむような視線を琢磨に向けると言った。

「分かりました。もし学生生活でお困りのことがあれば、このビラに書かれたところに、お電話下さい。われわれが力になります」

「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げると、その女性は、意味深な笑みを浮かべて去っていった。

 琢磨は、自分が少しはハンサムなことを久しぶりに思い出した。

 ——顔やスタイルなど、社会を生きていく上でたいしたことではないが、それが役に立つなら使わない手はない。

 琢磨にとって容姿など、その程度のものだった。

 徐々にホール内は静かになり、オリエンテーションなるものが始まる雰囲気が高まってきた。

 いつの間にか学生活動家らしき者たちが姿を消すと、いかにもまじめそうな学生が、「履修科目説明書」と書かれたパンフレットを配布している。こちらは、学部から履修説明会の手伝いに駆り出された二回生だろう。

 琢磨の机の上にも、それが置かれたので、見るでもなくペラペラとめくってみた。そのうち学部長らしき老人が登壇し、何やら訓辞を垂れ始めた。

「君たちはもう大人だ。勉強をしてもしなくても自由だが、成績が悪い者には単位をやらない。言うまでもなく、単位が足らなければ留年となる」といった内容である。

 琢磨にとって、ある意味、それは新鮮だった。

 ——自由か。ここは、それが許されている世界なのだ。

 琢磨の脳裏に、羨望と蔑みが入り混じった複雑な感情が渦巻いた。

 

 午後三時、オリエンテーションが終わると、琢磨は人の波に押されるようにして、ホールのある十三号館を後にした。

 入ってきた時とは違い、何人かのグループとなっている者たちもいる。隣り合った者どうしが、何となく声を掛け合い、友人になったのだろう。

 文学部なので女性は多いものの、意外に美人は少ないので、”ある程度”の美人の周囲には、すぐに人が集まり、「喫茶店に行こう」などという声も聞こえてくる。

 ——確かに、履修科目についての情報交換は必要だ。

 そうは思うものの、成績を問われていない琢磨の場合、そんな連中と喫茶店に行っても、無駄な時間を過ごすだけである。

 外は晴天で、キャンパスの緑は濃い。

 皆、これからの四年間に思いを馳せ、弾むように散っていく。それを見つめつつ、琢磨は皮肉な笑みを浮かべた。

 ——さて、仕事だ。

 気持ちを切り替えた琢磨は、明るい青春など振り捨てて何事かを叫んでいる者たちの方に向かった。

 昭和四十二年(1967)3月、北海道函館市出身の三橋琢磨は、北海道大学文学部を優秀な成績で卒業すると、迷わず警察官採用試験を受けた。祖父と父が警察官だったこともあり、自らが警察官になるのは、子供の頃から当然だと考えていたからである。

 大学時代から準備を始めていたこともあり、首尾よくⅠ類に合格した琢磨は、警察学校に入校し、警察学校での厳しい訓練を受けた後、現場に配属されることになった。

 警察官の場合、最初の半年の訓練期間の後、各警察署に卒業配属され、様々な部署の仕事を半年ほど経験した後、再び警察学校に戻される。そこで半年ほどの再教育を受けてから、卒業配属先に戻される。

 その後、それぞれの希望を基に専門の部署へと進むことになるが、琢磨は公安を希望したので、所轄の警備課公安係で仕事をすることになった。

 地元での初仕事に胸躍らせていた琢磨だったが、ある日突然、「警視庁に派遣する」という辞令をもらい、東京に向かった。

 むろん、それならそれで琢磨に異存はない。

 ——警視庁公安部公安第一課第二公安捜査係に勤務を命じる、か。

 その部署が何を取り締まるのか、琢磨にはすぐに分かった。

 ——学生運動の情報収集だな。

 ここのところ学生運動は一段と過激さを増してきており、公安部が増員されていると、警察学校で聞いたことがある。

 公安部のあるフロアでは、多くの署員が働いていた。皆、白いワイシャツ姿で約半数は電話口に向かって何事かを話している。この様を見るだけで、いかに公安部が花形の部署であるかが分かる。

 ——自分もこうなるのか。

 数カ月後には、自分もこの人たちのようになれると思うと胸が躍る。

 指定された午前九時ちょうどに公安第一課長の部屋をノックすると、中から「入れ」という声が聞こえた。

「失礼します」

 課長級の警察官と会うのは初めてなので、琢磨は緊張していた。警視庁の課長と言えば警視正であり、しかも公安部なら、エリート中のエリートと言ってもよい。

「北海道警から派遣された三橋琢磨巡査部長です」

 制服姿で左腕に制帽を抱えた琢磨は、直立不動の姿勢で敬礼した。

 琢磨は道警の採用試験を主席で突破し、警察学校卒業時に道警本部長賞をもらった。その後、昇進試験にも一発で合格し、巡査部長になっていた。つまり、ノンキャリアとして出世の階(きざはし)を上り始めており、警視庁の公安に派遣されてもおかしくはなかった。

「笠原省吾だ」

 警視正は立ち上がると、敬礼を返してきた。

「君は北海道警から派遣され、今日から警視庁公安部公安第一課第二公安捜査係の所属になる」

「はっ」

 笠原警視正は四十絡みで、少し薄くなった頭髪には、べったりと丹頂ポマードが塗り付けられていた。身長は160センチメートルほどだが、その体躯は引き締まっており、剣道か柔道を日常的にやっているとすぐに分かる。

「まあ、そこに掛けろ」

「はっ、失礼します」と言いつつ笠原の対面の席に座ると、笠原は電話を取り、内線で「横山君、すぐに来てくれるか」と言った。

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