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平和には「リヴァイアサン」がやはり必要なのか……?

 数日前にガザ地区はどうなっているのかと、ニュースを探して見ていたが、この映像には衝撃を受けた。

  私はこの少女の悲しみの顔を一生忘れない。一体何があったのか、記事内では触れられていない。両親が、兄弟が亡くなったのか。それとも親しい友人か。私にはこの少女がユダヤ人の少女アンネ・フランクに重なって見える。

 かつてホロコースト、凄まじい迫害を受けたユダヤ人たちが、今度はパレスチナの罪なき人々を虐殺している。歴史を知る人々はユダヤ人を、イスラエルの暴走を食い止めるのに二の足を踏んでしまう。まして、今回のガザ地区紛争の発端はハマスの非道な許されないテロ行為だけに、なおさら躊躇ってしまう。しかし、報復行為とはいえ、罪なきパレスチナの、ガザ地区の民衆への無差別爆撃に、国際社会は意を決し遂にNOを突き付けた。

 パレスチナ問題はイギリスの二枚舌外交が原因で起こり、当のイギリスは今も何らの責任も取っていない。

 だが今さらイギリスを責めても何も変わらない。まずはイスラエルの無差別攻撃を食い止めることが大事だ。国際社会は今後も粘り強くイスラエルに、アメリカに働きかけるしかない。その過程で多くのガザ地区の民衆が死ぬのだろう。最悪の事態である。引用記事の少女のように、無数のアンネ・フランクが慟哭の涙を流すことになるのだろう。もしもあなたが、そんなものは二度と見たくない、と思うならば、私と共に知恵を絞り抜いてほしい。

 いかにすれば平和は保たれるのか。

 ゲーテは「史上の平和は全て善、史上の戦争はすべて悪」と言った。それだけ、平和を保つのは難しいと思っていたのだろう。カントは「永遠平和のために」で国連の創設を提唱した。カントやロックのような啓蒙家よりも、ほんの少し時代を戻すと、トマス・ホッブズがいる。ホッブズもまた社会契約や市民社会の設立の必要を考えていた。そこで出版したのが「リヴァイアサン」である。

  この中でホッブズは、人間は「万人の万人に対する闘争」という概念を提唱している。

以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。すなわち《戦争》とは、闘いつまり戦闘行為だけではない。闘いによって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。

「リヴァイアサン」ホッブズ

 ホッブズのいう戦争は、現代の戦争とはやや概念が異なり、人々の小競り合いなども含んでいる。また、リヴァイアサンとは聖書に出てくる海獣のことだが、ホッブズは「国家=当時の絶対王政」が強力な支配力で人々の権利を守り、それで平和が保たれるべきだと考えた。封建秩序の維持を唱えている時点で現代にそのまま援用することは出来ない概念ではあるが、国家を世界全体として考えた際、「強力な支配力=軍事力を持つ組織(例えば国連平和維持軍)が世界に睨みを利かせ、戦争や紛争を一切起こさせない」存在としての「リヴァイアサン」が存在するしかないんじゃないか、と私は思うようになってきた。大前提としてその平和維持軍に国籍はない。特定の国家の利益のために動く軍隊では意味がない。世界平和維持軍と呼んだほうがいいかもしれない。カントの「永遠平和のために」の続きがあるならば、必ずこの世界平和維持軍が提唱されたはずだ。本来は、戦争に対しては法や道徳や倫理で縛るのが理想なのだが、21世紀の今、ウクライナで、パレスチナで戦争が起こっている今、それらが無力である事を痛感している。軍隊などないほうがいい。軍縮に向かうほうがいい。それらすべて分かったうえで、私は段階的な主張をしているのだが、これすらも実現の可能性は、現時点ではほとんどゼロだろう。出来ることは、ひたすら戦争反対と言い続けることしかないのだろうか。ペンは剣より強しという言葉もある。希望は捨てず、ウクライナとパレスチナでの犠牲者が一人でも少ないように、一日も早く戦争が終わるように祈る事だけは止めないし、言えることは言い続けるつもりである。

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