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キリスト教はなぜ同性愛を否定するのか

 つい先日、ローマ法王がこのような声明を出した。同性愛を肯定すると思われる発言である。

 その前に、あれっ、キリスト教って同性愛、ゲイやレズビアンに否定的なんだ、なぜ?と思われた方はこの記事を一読してもらいたい。新約聖書に同性愛を否定する文言があるのが理由なのである。

新約聖書パウロ書簡では、「偶像崇拝や婚前性交渉、魔術や占いをする者と共に『男色する者』は神の国を相続しない」と第一コリント6章9-10節にある。 これに対し、同性愛を受容する人々は、イエスは特には言及していないことを受容論の根拠とする例がある。 否定論を唱える人々は、旧約聖書、新約聖書の一貫性や聖書無謬論に立つ。

 と、こうなっている。厄介なのは、聖書の教義というのは絶対のドグマであって、書き換えるとかは出来ない事である。そこで出来るのは解釈変更や、新たなる解釈ということになる。そこで、知っておいてほしいことがある。新約聖書が成立したのがだいたい3世紀頃だが、この頃の原初キリスト教には、いわばライバルとしてのギリシャ・ローマの宗教である。

 これは厳密には「宗教、Religion」とは呼びにくいものなのだが、ともあれ、ローマ帝国はもともとこれを崇拝していたが、キリスト教の凄まじい勢いを見て、4世紀にはキリスト教を正式に国教と決定する。そうなるまでには初期キリスト教の使徒たちの粘り強い弾圧との戦いがあった。その一人、パウロが「ローマの信徒への手紙」という書簡の中でこう書いている。

それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い(略

ローマの信徒への手紙1章24-32節

 そして、さらにはっきりとこう書いている。

「思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、【男娼男色をする者= 同性愛者たち】、 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」 

コリントの信徒への手紙一 6章9~10節

 ああ、そうなんだ、で終わらせたいところだが、パウロは、実は単に男色者を批判しているのではない。こちらを見てほしい。結論から言うと、パウロが否定しているのは、ローマ神殿にいた神殿男娼(神殿内で体を売る男性)なのである。

 当時のペテロはローマ帝国の国教であるギリシャ・ローマ宗教を否定し、キリスト教を広めたい立場だから、ローマ神殿で行われていることは当然批判しする。こういう文脈で男色が批判されているという背景は是非知っておいてほしい。しかし、当時の時代背景に男性の同性愛に否定的な考えがあったのも事実だろう。結局、宗教の教義もまた、時代を反映しているに過ぎない部分もある、と私は思う。だから、同性愛を容認する時代が来ているのだから、キリスト教徒もさっさと教義を変えたらいいのに、と思うのだが、さっきも書いた通り、聖書を書き換えるなどということは絶対に出来ないので、冒頭の記事のように、解釈変更などをするのである。ただ、それだけでも大きな大きな意味がある。このようなキリスト教、カトリックであれプロテスタントであれ、キリスト教徒たちは信仰を大事にすればするほど、同性愛、同性愛者に否定的にならざるを得ない。これはアメリカの番組だが、この動画を見てもなんとなく雰囲気はつかめると思う。

 ところで、日本国ではどうだろうか。衆道などという言葉もあるように、同性愛には寛容であったと思う。このまとめを読むと、寛容どころか楽しんでいた感じである。

 ゲイは地獄行き、などと言っていた欧米と全く違う文化を日本は持っていたのが分かる。だから私はゲイとレズビアンに関してはあまり心配していない。一日も早く同性婚を合法化してあげてほしい。ただし、それに関わる代理出産などの法整備は必須だとも言っておく。ちなみに、同性愛の矯正というものは出来ないと認識しておいてほしい。ナチスドイツの難解な暗号「エニグマ」を解読した天才数学者でゲイであったアラン・チューリングが矯正治療、科学的去勢をさせられ自殺したことを最後に書いておく。

イギリス政府はアランに行ったことを間違いだと認め正式に謝罪した。どうかこの記事を読んだあなたも、ゲイやレズビアンに対する偏見があるなら、それを無くしてほしい。誰を愛するか、を他者が批判する必要はない、と思ってほしい。

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