ただの若造が才能について語ってみた

「何かを世に出したい、何かを外へ放出したい」という感情はあるものの、それの表現の方法が思いつかない。(もしくは表現するだけの技能がない)音楽を作れるわけでも、絵を描けるわけでも、とんでもなく発想力が豊かなわけでもない。また、身体が他の人よりも動くわけでもない。

そうしたことに関して、「天才」「奇才」ではない、ということは今までの人生が証明しているし、他の人よりどうとか言っている時点で、そうした
素質がないことは重々承知している。


ただ、その大体のことはある程度の努力をすることで、何とかなるのではないかとも思う。例えば、絵を習えばある程度は上手くなるだろうし、音楽の基礎を学べば、それなりのものは作れるだろう。だが、それもしない。だから、結果として私にはあまり向いていないと言えるかもしれない。「努力も才能のうち」とはよく言うが、まさにその通りだと思う。また、「好きこそものの上手なれ」とも言えていると思う。好きなことは、努力とも思っていない。


だからこそ、努力というのは才能に区分されるのだろう。ただ、少なくとも今の私のように、とりとめのない文章を書いている人間にはこの才能はない。いやある意味こんな文章を打つ才能はあるということなのか?


こんなよくわからない、タイピングの例文のような文章を書く才能を与えたのは、一体誰なのだろうか。神か?いや、神もこんなニッチな才能は与えないはずだ。親か?いや、親もこんな良く分からない文章を書いていたわけではない。しかし、私は実際に今ただ思いついたことを適当に打ち続けている。


こんなものは、やはり才能ではないのか。はたまた才能なのか。まあ、もし才能であったとしても、実生活には何の役にも立たないだろう。とにかく
私は発散したい。発散、放出、解消。しかし、そのツールがない。(使いこなせていない)恐らく、以前まではとにかくストレスのかからない相手に
しゃべりまくることでこれを満たしていたのだろう。(その相手にはストレスをかけていたかもしれないが)ただ、いまはなかなかそれも出来ない。


「SNSに書き込めや!」と言われるかもしれないので、それを想定した回答をすると「人に見られることを前提にした投稿は『ストレスのかかる』
発信になります」ということになる。結果として人に伝えなければならないコミュニケーションはとても疲れる。どのようにすれば、1番伝わりやすいのか、を考えなければならないからだ。ただ、簡潔すぎると反対に自分の伝えたいこととは異なることがある。その塩梅を見つけるのに疲れるのだ。


 あ、この塩梅を見つけるのも「才能」なのか?そうすると、SNSをすることもある種才能なのかもしれない。そう考えると、才能を持った人たちで
この社会は構成されているなあと思う。才能のない私は、もう文章を書くことに疲れてしまったので、今日はこの辺で。

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