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【読書】漢帝国―400年の興亡 渡邉 義浩 漢字・漢民族 帝国はなぜ「中国」の古典となったのか?

皆さん、わたしのnoteにご興味をいただき、ありがとうございます💁

みなさんは、中国と聞いて、どのような感想を抱きますか?

一党独裁の恐怖の中国共産党支配による、恐ろしい国。

アメリカに次ぐGDP2位の大国。

なんとなく、苦手で気に入らない国。

人口が日本の10倍はある巨大な国。

いろいろと感じ方や捉え方があると思います。

しかし、私たちが今こうして、読んでいる、書いている漢字やそこから派生した仮名文字も、全て中国から受け継いだものですよね。
本家の中国ですら、廃止した「元号」も日本は相変わらず受け継いでいる。
それ以外にも、沢山の文化を中国から学び、継承している。

「天皇制度」やさまざまな「式典」や「礼典」も、元をたどれば、中華帝国からの引用です。多分に儒教的要素を含んでいますね。

伝説の三皇五帝の時代や、「夏」「殷」「周」、春秋戦国時代を経て、
中国はついに統一されたことは、皆さんもご存じでしょう。

けれども、初の統一帝国である始皇帝の「秦」は15年ほどで敢え無く滅んでしまいました。

散々、苦労して、戦いを繰り返し、ようやく統一したというのに、なぜ、
呆気なく滅んだのでしょうか。。。。

この疑問については、前漢の司馬遷や、賈誼らが、
その原因について、書物に書き残しています。
「史記」「過秦論」ですね。

「秦」を討ったのは、項羽と劉邦でした。
連合軍であったと言っても良いでしょう。
楚の項羽が、秦の主力軍である、章邯軍を壊滅させ(鉅鹿の戦い)
別動隊の劉邦が秦の首都、咸陽を落として、秦3世子嬰が降服。、
長い秦の歴史にピリオドが打たれたことは、歴史好きなら、というか、
世界史の教科書レベルでご存じかも知れません。

ここから、項羽と劉邦の激しい楚漢戦争が開始されて、ついには、
劉邦が垓下に項羽を追い詰め、激戦を制して勝利しました。

もともと、項羽に左遷された劉邦は、その土地である「漢ハン」を国号として採用し、その漢は、中華民族や、文字を表す意味として成立します。

今から、2000年以上前のことですが、わたしたちは、今でも、
漢字、漢民族、あるいは、男を意味する「漢」という言葉を何のためらいもなく使っているわけです。

このようにわたしたちに影響を与えてきた、「漢」という国家・王朝を知ることは決して無意味だとは思いませんでした。

そして、

「秦」を討った劉邦

「新」を討った劉秀

「魏」に滅ばされた劉備と劉禅親子。

「西晋」を滅ぼした劉淵とその一族。

彼らと、前王朝を滅ぼした、或いは、滅ぼせなかった原因は何か。
それらを知ることに大変興味を持ちました。

そして、なぜ、漢は理想的国家・王朝になったのかを窺い知ることのできる作品でした。

学者の書いた書物ですから、表現にも難解な点もあり、学術的な考察も多いとはいえ、中国の歴史好きにはもってこいの著作だと思います。

中国の大多数を占める漢民族国家として、いまなお、敬愛されているのは。

「前後漢」→「蜀漢」→「唐」→「宋」→「明」でしょうか。

ただし、唐の皇帝は異民族であるというのが、歴史家の大方の解釈ですから、実に数少ないことが分かります。

ともあれ、暴虐にして、人民に対して
苛斂誅求を極めた「秦」を滅ぼした、農民の劉邦。

彼の彼らしいエピソードがあります。

皇帝に即位したときに、式典で儒教の礼に従わなければならなくなりました。

学問や儒者嫌いで有名な劉邦は臣下にこう言います。

「わしは馬上で天下を取った。学問などいらぬ。礼儀作法なども無用じゃ」と。

しかし、臣下はこう諫めます。

「陛下は、確かに馬上で天下を収められました。
しかしながら、馬上で天下国家を安定させることはできませぬ」

これを聞いた劉邦は、しぶしぶ、そのしきたりにのっとり、従いました。

そして、こう言いました。

「たしかに、わしは、皇帝というものの尊さがわかったような気がする。これからは人民のために天下国家を定めていきたい」

また、あるときは、こんなことがありました。

新しい宮殿を建てようという意見が臣下から持ち上がると。

「天下国家、人民らはまだ疲弊している。そんな時に、朕らが贅沢をするなど、言語道断ではないか? 中止せよ」

「おそれながら、陛下。このような時であればこそ、陛下と漢の威厳を見せなければならないのです。どうか、ご理解賜りますように・・」

劉邦はそれに同意したようです。

ご存じかと思いますが、劉邦すなわち漢の高祖は、韓信、英布、彭越ら功臣を容赦なく粛清しています。
しかし、それは劉氏一族の安泰願うための止むを得ない措置であったとも解釈されています。

彼に続く、文帝、景帝はいずれも名君として誉れが高く、民政に努めました。
文帝などは、自分の墓を質素にして人民に負担を与えるな。また、喪にも服さずに、死後も普通に政務に励むように指示を出しています。

そして、賛否両論に評価が分かれる武帝ですが、彼は始皇帝以上の野心家であり、領土を広げ、匈奴を討伐し、漢帝国を絶対的な存在としました。

以降は、幼帝や暗君が続き、気が付けば、外戚の王莽に、漢王国は簒奪されてしまうのです。

ここまででも長くなりました。
王莽の新以降については、また別の機会に書きたいと思います。

まとめるなら。

漢帝国は、「武力」「学問=儒教」「徳」の3つが備わった国家でした。

また、それを確定した王朝だったとも言えるでしょう。

無能な皇帝や、幼帝はいましたが、少なくとも、人民に対して、非道な態度をしめすような皇帝(天子)はいなかったかと思います。

全ての中華帝国のお手本となっていた、漢帝国。

のちの歴史家はこう述べています。

「後漢の光武帝以降、明帝、章帝と名君が続いた。

その後、幼帝らが継承していなければ、宦官や外戚、官僚らものさばらず

に、漢帝国は、永遠の中華王朝として君臨していたことだろう」と。

歴史に「もしも」は禁物ですが、

日本のように、歴代天皇が長らく、現在まで続いているように。

漢帝国の皇帝たちが、変わらず存続していたらとすれば、
どのような国となっていたでしょうか。

残念ながら、それは叶わず、魏の曹丕は後漢の献帝より国家を簒奪し、
蜀漢の劉禅は、魏に降伏し、漢帝国は400年ほどを持って歴史の彼方に追いやられてしまいます。

しかし、彼らの残した文化や、「漢字」や武帝から始まる「元号」は、

わたしたち、日本人の生活の中に、溶け込んでいるということです。








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